「生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」と論じたのは紀貫之だが、そんなこといわれたって、誰もが歌人であるわけはない。私だって三十一文字のうたはつくらない。平安の雅な世は知らず、現代では、歌人のほうが希少種だ。だがもちろん、貫之の意図はそうではない。蛙の声に歌を感じる貫之は、人々が日常発する言葉の中に「歌」を見る。ポップソングや演歌やラップも歌であるのは当然として、もっと幅広く、声として外に出てくる人の心の端を歌というのだろう。日常に思わず口をついて出る心の叫びこそが歌だ。なんならTweetだってブコメだって歌である。そういう意味では、たしかに歌をよまないひとはいない。 人間は政治的な存在である、というときの「政治的」の意味も、似たようなものだ。たとえば私が「キムチはどうも苦手だ」と言ったとして、そこにはひとかけらも政治的な意図はない。うまいと思ったことがないとは言わないし、それどこ