動物っていうのは「遊ぶ」のが、大好きだ。それこそ、理屈抜きで。むしろ、それを遊びだとは意識せずに本能的に遊びに興じる。 そして、子供の本文は「遊び」だ。遊んでる限り飽きもせず、ずっと動き回っている。そういう時は食事とか睡眠さえ余計なもののようになってしまう程だ。 遊びで生きているという存在状態は、そもそも生物が遊びという創造性の発露をその本質としている証拠の様にも見える。遊びの創造性は余計なものではなく、それこそ生き物の本質なのではないか? ところが大人になればなるほど、遊びは排除され、余計なものとか、無駄なものとして忌み嫌われるようになる。それは時間の無駄だとみなされる。そして、やがて、遊びは余暇の暇つぶしとか、余計者の道楽、生産性の無駄遣いとされてしまう。 大人は余り遊ばない。または、遊びを社会の余剰とみなすことで無理やり社会性と付き合う術を学んでいるようだ。 ところが、今、モノづくり