大気汚染で有名な北京に青空が戻った。テレビ東京のニュース動画で、青空が確認できる。 これはAPECの開催に合わせて、11月3日から開始された「青空作戦」の成果によるらしい(FNN)。企業を休みとし、工事は停止、車はナンバーの数字が奇数か偶数かで走行を規制する許可制になり、また発電や暖房の制限などの徹底的な対策によって青空が戻ったとのこと。これらの規制はAPEC終了まで継続されるという。 中国が発展によって得たものと失ったものを考えさせられる。
米ブルックヘブン研究所 (BNL) の実験により、ヘリウム 4 (4He) の反物質である反ヘリウムが発見されたようだ。反ヘリウムは、既知の反物質としては最も重いものとなる (Brookhaven National Lboratory News の記事より) 。 BNL の重イオン加速器 RHIC による実験で、ほぼ 10 億回の金原子核の衝突によって生じた 5000 億の荷電粒子の軌跡を調べたところ、その中で 18 例だけ、反ヘリウム原子核と思われるケース (つまり陽子のほぼ 4 倍の質量で電子 2 つ分のマイナスの電荷を持つ粒子) が含まれていた。これは計算上予想される反ヘリウムが生じる確率ともよく合うのだそうだ。 なお、反ヘリウムよりも重い反原子核 (たとえば次の反リチウム) の生成確率は非常に低いため、実験装置に何らかのブレイクスルーがない限り、人類に合成できそうな反物質で一番重い
ニューロン間の接続が特定の変化をしたとき、一時的に系全体のエントロピーが減少しうることをケブンリッジ大学の Qugar Bedrian 教授らが発見した (Cabmridge News のページより) 。 教授らによると、実際の生命体の神経でこのエントロピーの減少が引き起こる機会は滅多になく、また部分的にエントロピーの減少が起こったとしても他の部分の変化も考慮すると系全体のエントロピーは増加する。しかし、第二次性徴期を迎えるヒト (♀) の一部の個体において、希望から絶望への感情の変化時に系全体のエントロピーを減少させることが分かったとのこと。 教授らは、宇宙はこの仕組みによって熱的死を回避していると主張している。しかし、この研究には疑問の声も挙がっており、第二次性徴期を迎えるヒト (♀) を長年観察してきた greentea 氏は「こんなの絶対おかしいよ」と主張している。
未来の巨大データアーカイブが 大腸菌入りチューブ満載のディープフリーザー群で構成されてる絵は 中々に楽しそうです。ただ --------------------- 元スライドをざっと見た感じ 元データを2ビットでエンコードしてATGCに置き換えた上でさらに圧縮をかける。 できあがった配列どおりのDNAを合成してプラスミドの形で大腸菌に導入。 復号時はプラスミドを抽出してDNAシークエンサーで読む。 こんな感じみたいですね。 --------------------- ツッコミどころとして、ふつう大腸菌は「1匹2匹」じゃなく 「同じ遺伝情報を持つ大腸菌クローンの菌液何ml」 という、同一性が保証されている何億匹だかをひとまとめにした扱い方をするので、 ここで言われているような「大腸菌1gで900TBのストレージ」 ってのは無理としか思えません。 これ、1gの大腸菌がぜんぶ違うデータを持ってる
ミツバチは複数の花を最短ルートで移動していることが、ロンドン大学クイーン・メアリー校および同大学ロイヤルホロウェイ校の共同研究で分かったそうだ(ロンドン大学クイーン・メアリー校発表、本家/.)。 複数地点を一度ずつ巡り出発点に戻る最短ルートを求める問題は通称「巡回セールスマン問題」と呼ばれており、ミツバチはこの問題を解くことができることが発見された初めての種であるという。 研究ではコンピュータで制御された人工の花を使い、ミツバチがこの花を「発見した順」に巡るのか、それとも「最短ルート」を見つけ出すのかを検証した。その結果、ミツバチはそれぞれの花の場所を探索したあと最短ルートを飛行するようになったという。 コンピュータでは解くのに何日もかかるこの問題をミツバチが短時間でどう処理しているかを調べることで、複雑な問題の解決に必要な最小限の神経回路を解明できるかもしれないとのことだ。
フラクタルの概念を提唱したブノワ・マンデルブロ博士が 14 日、マサチューセッツ州のケンブリッジで亡くなられた。85 歳 (47NEWS の記事、The New York Times の記事より) 。 博士の妻、アリエットさんによれば膵臓がんを患っていたという。博士はカリフォルニア工科大学で航空力学の修士号を得たあと、パリ大学で 1952 年に数学の博士号を取得。その後、プリンストン高等研究所にてジョン・フォン・ノイマンの下で研究を行った。それからしばらくはフランス国立科学研究センターで過ごした後、1958 年に IBM のトーマス・J・ワトソン研究所に雇われ、IBM に所属している間もハーバード大学や MIT の客員教授として働いていた。1987 年にイェール大学で教鞭を取り始め、1999 年にテニュアを取得。日本との絡みで言うと、1994 年に本田賞、2003 年に日本国際賞を受賞して
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く