日本の関東軍が旧満州の奉天(瀋陽)郊外で満鉄(南満州鉄道)の線路を爆破し、沿線の都市を占領した満州事変から18日で80年たった。爆破は当時、中国側のしわざとされたが、戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)で、関東軍の謀略であることが判明し、「日本の中国侵略」の始まりとして断罪された。 だが、事変の本質はそれだけでは語り尽くせない。 昭和初期、満州では排日運動が激化し、日本が日露戦争後のポーツマス条約(1905年)で正当に得た南満州鉄道などの権益や在留邦人の安全が脅かされる事態が相次いだ。事変直前の昭和6年夏には、参謀本部の参謀が旧ソ連との国境付近を調査旅行中、中国軍閥に殺害された「中村大尉事件」も起きた。 一触即発の雰囲気の中で事変が発生し、多くの国民は関東軍の行動を支持した。こうした時代背景も踏まえる必要がある。 翌7年、関東軍の主導で満州国が建国された。一方、国際連盟から英国のリットン卿を