以前もちょろっと書いたが変数は型(タイプ)なんてないほうがいいというか、型を意識して物を考えさせられるのは苦痛だ。人間は物に対して型なんて考えない。それが自然だ、と。 それは今でも基本的に変わらないのだが。 が、人間の思考というのは、OOP的なんだろうか? ところで、型(type)というのは、実は、クラス(Class)であり、クラスというのは、イデアだ。プラト二ズムというか、ようするにこれは形而上学的な一つの世界観の表明であり、プログラミングというのはある種の世界観の表明である……一面で。 人間の思考はどこまでが計算なのだろうか。言語は計算だろうか。計算は自然数に起源を持つのか? そのあたりは、生得だとして、生得能力は実際には何を意味しているのか? というか、これもまたただのイデア論であり循環論ではなかったか。 ちなみに⇒Haskell - Wikipedia let { fac 0 =
暇はあっても金のない層がユーザーの主流を占めるテレヴィに広告を出して、どんな効果があるというのだろうか。 楽天によるTBS買収のニュースを聞いて、わたしは「無体性」という概念に改めて感銘を覚えている。このニュースは、どれだけ賢明な人間でも“金はあっても考えが足りない”行動を起こしかねない、ということを証明しているからだ。 金はないが暇ならたくさんある、ということを自ら証明しているような、世界で最も無頓着なメディア消費者らの注目を集めたいのであれば、TBSのような方法もありだろう。 世の中には、言葉を効果的に使ってコミュニケーションを図っている人などあまりいないということは、既に多数のネットイナゴが証明している。そして今度はテレヴィだ。TBSでは、優れたドラマを作るのは難しいが、ボクシングのチャンピオンを作るのは簡単だ、ということが証明されている。 テレヴィはまさに、大勢の視聴者の中から、わ
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