このサイトの特に古い時代のテキスト(脱オタ関連のテキストで2003年以前につくられたもの)では、侮蔑や差別を脱したいと思った被差別オタクが、どうすれば良いのかを考えてきていた。その是非はさておき、もしも実際に脱オタや隠れオタ化を推進した際に副作用的に生じる諸問題についてはあまりページを割いてこなかったように思える。今回は、それらの実行に伴って発生する、“副作用”とでも言うべき代償について少し触れておこうと思う。 選択の自由が個人に委ねられている状況では、一般に、ある選択をするという事は、同時に選べた筈の別の選択肢を切り捨てる、という事と表裏一体である。限られた予算・体力・時間のなかで一個人が一定時間の間に選択できる選択肢はたかが知れており、各個人の体力・経済力・知的水準のなかで、限られた資源を消費して行動選択しているのが人間だとも考えられる――たといそのチョイスがどれほど軽率なものであろう