ある高機能のASの人とのカウンセリングの中で、本人から「庇護を求めていた」という言葉が出てきて、さまざまなASのタイプを統一するイメージが浮かんだ。 もとは「庇護」なんだ。だから「100パーセントが当たり前」で、「対等の関係にはならず」、「相手の人格を想定しないで良い」のだ。 「庇護」という言葉は無条件の理解と保護を意味する。だいたい胎児から乳児に対する親の行うことが「庇護」で、親は当たり前に100パーセントの責任を負い、乳児本人からの要請や 親子の相談は必要なく「以心伝心」で親は乳児の求めていることを理解し、提供する。 反対にケア(世話)する立場になった場合はASの人はケアされる側のニーズを聞くことをせず、結局第三者から見ると「支配的な押し付け」になるが、これも「庇護」モデルの反対側を演じているのだと考えると説明がつく。 ASの人の理想とするコミュニケーションのあり方にも非常
最近の考察を受動型ASの本人から見た場合で考えてみた。 受動型ASの本人が理解するべきことは、以下の通り。1.「誰かが本人を理解することも、本人を大事にすることも、100パーセントを求めることは出来ない」という単純な当たり前の真実を認める。2.親でも。親友でも、パートナーでも同じである。「100パーセントを目指して努力し続ける」ことは出来るが、結果として「100パーセントの理解が成立した」と感じるとすればそれは「錯覚」であり、「勘違い」である。3.当たり前に100パーセントの理解や100パーセントの受け入れを要求した場合、関係が長持ちすることは不可能である。これも考えれば当たり前であるが、現実的には「4、5歳までの幼児期に親が一見それに近い状態になれる」か、または「胎児期の母親は100パーセントの庇護をすると言えるが、その母親に胎児が現実的に要求することは出来ない」と考える。4.だから受動
受動型ASのイメージがやっと明確になったことで、やっと発達障害全体の問題を考える段階に来た。 この段階で「発達障害の根本問題」をまとめておこう。 発達障害の根本問題(2012年3月) ADHDの本質は衝動統制の障害、ASの本質は対人関係の愛着の障害である。 いずれも多数派に見られる様に「空気」で適度に制限・制御されることが無いため、ADHDは甘やかされれば(実は管理されすぎても)自分で衝動コントロールが出来ない大人に成長し、ASは甘やかされれば愛着対象に100%の要求をするようになり、いずれも思春期以降に深刻な不適応を来たす結果になる。 診断とケア上の最大の問題は、「ADHDで依存的になっている例とASを区別すること」である。 なぜなら、本来ADHDには依存は脳の働き上は極めて不自然なあり方で、完全に依存関係を取り去っても不健康になることは無いのに対し、ASにとっては依存はむしろ本来
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