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ブックマーク / crow-henmi.hatenadiary.org (7)

  • びっくりするほどディストピア - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    http://www.wired.com/wired/archive/13.12/start.html?pg=5 id:walkeriさま経由で。 walkeriさまも列挙されておいででしたし、さて自分もと思って並べてみました。 オセアニア(1984年)。いやこれ外しちゃダメでしょう。ディストピアに必要な殆ど全てのモチーフとテーマがそこには存在していています。「個性の圧殺」「体制の不条理」「個人の無力」「先取りされた未来へのニヒリズム」そしてなによりも「しょぼくれたルーチンワーク生活と貧乏配給ガジェット」――勝利ジン、勝利シガレット、勝利体操、二分間憎悪! ないのは「一見完成したユートピアに見えるけどディストピア」という成分ですが、そこは二重思考で補え(ぇ 未来世紀ブラジル。1984年のオセアニアにモンティ・パイソン風味のスパイスを山ほど振り掛けるとああいう有様になるわけで、今でも僕はあの

    びっくりするほどディストピア - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
    umeten
    umeten 2010/05/25
    ユートピアの反対のディストピアの例の列記
  • どうみてもディストピアです - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    あちこちで俺ディストピアを語ってくださる方々がいらっしゃいましたので、こちらでリンクしてみました。 http://park5.wakwak.com/~rasen/diary.html 偉大なる指導者同志速水螺旋人さま。12月14日付日記。定番物を外してこれだけ出てくる引き出しの広さに脱帽です。「暗黒世界のオデッセイ」とか「収容所惑星」とか渋いチョイスです。百万迷宮の舞台設定は秀逸ですね。ホント、余りにも重苦しく、どこまで行っても出口がない。明け方の寝覚めの悪い夢に出てきそうな感覚です。スターリン体制下のソビエトも現実に存在していたディストピアとしてはレベル高すぎ。ナチが勝利した改変世界ものは結構あるのに、ソビエトが冷戦に勝利したポスト冷戦時代を書いた作品が殆どないのは悲しい限りです。 http://d.hatena.ne.jp/REV/20051214/p9 REVさま。さらっと「ハイ-ラ

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  • もし「涼宮ハルヒの憂鬱」が60年代学生運動を背景にしたドラマだったら - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地

    ハルヒ第2期情報と、先日放送していた安田講堂攻防戦を見て、ふと思いついたネタ。元々はTwitterで書いたのだが、結構Favられたので再掲。 「ただの人間には興味ありません! この中に革命的プロレタリアート同胞がいたら、私のところにきなさい!」と入学早々トラメガでぶちかますハルヒ。それにオルグされるキョン。気が付けばノンセクトラジカルの活動組織「世界を大いに革命する涼宮ハルヒの団」が結成されてる。 文芸部の部室を溜まり場として空回り気味の学生運動に熱中するハルヒ一同。構成員はインテリ天然左翼の長門、道端でオルグされたみくる、公安のエスの古泉*1。最初はアジプロとオルグ中心の活動だったのが、だんだんとエスカレートして行き、デモ参加、党派との接近、そして武装闘争にまでいたる。 先鋭的な党派への合流を選んだハルヒと、袂を判ったキョン。ハルヒはその後パレスチナに行ってアラブゲリラと共闘。2000年

    もし「涼宮ハルヒの憂鬱」が60年代学生運動を背景にしたドラマだったら - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)跡地
  • 供犠としての碇シンジ、あるいはポストゼロ年代の想像力に向けて - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)

    炎暑の日々をやりすごすうち、ふと気づくと涼風を肌に感じる季節になった。夏ももうすぐ終わりだなあ。 ここのところ、blogでまとまったエントリを書く気力がなかったので完全放置していたのだけど、Twitterなどでそれなりに書き留めた断片的なメモはあるので、それらを編集してお蔵出しなどしてみる。 ついったからの転載、改稿。 「恋空」は古典的な通過儀礼譚、しかもその純化された形として読むことができる。「日常>他者である移行対象との出会い>非日常かつ象徴的生>移行対象の死>日常への帰還と自己変容」という型がそこには見出される。しかし、なぜそのような通過儀礼譚が多くケータイ世代に受け入れられたのかが疑問としてある。 以前、現代における通過儀礼は共同体や社会システムの構造変化により困難になったと書いた。それに代わり「共同体が付与する意味にしたがって通過儀礼をなして成長するのではなく、自らを再帰的に成長

    供犠としての碇シンジ、あるいはポストゼロ年代の想像力に向けて - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)
  • 2008-06-22

    今日は外に遊びに行く予定だったのだけど、体調が急降下してだるかったので家でごろごろしていた。来週こそリベンジ。 「サバルタンとしての加藤智大」(http://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20080621#1214062132)について、あちこちからツッコミを受けて多岐に渡る議論になった。それについて、ある程度まとめておきたいと思う。ただ、気力がないので手短に。 サバルタン性は加藤という存在、あるいは加藤が属していた社会階級のみの問題に収斂されるべきではないのでは? コミュニケーション不全と自己疎外による徹底したサバルタン性というのは、確かに加藤個人や加藤の属していた社会階級のみに止まる問題ではなく、現代社会において普遍的に存在する問題といえる。主体性への接近不可能性(後述)や、他者との了解不可能性という問題は、程度や状況の差こそあれ現代社会に属する個人にとって普遍的

    2008-06-22
    umeten
    umeten 2008/06/22
    超克=要は、勇気がいるんでしょ?/それじゃアドラーとかわんない。「愛されたければまず自分が愛せ」というロジックは欺瞞/「困難に苦しめる」のは余裕のある「人間」だけ/↑非主体=ダラッとした状態ではない
  • サバルタンとしての加藤智大 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)

    今日は1日中ついったしていた。明日は外で遊ぼう。 加藤智大はサバルタンである。なぜならば、彼は社会から疎外され、ネットからも疎外され、自身の主体性からも疎外されている存在だからだ。 加藤が社会的にもネット的にも疎外されていたことについては、既に多くの語りが存在する。では、自身の主体性からも疎外されていた、というのはどういうことか。それは加藤の供述書に見られる決定的な類型性から読み取り得る。 加藤は自己がいかに社会に疎外され、ネットにおいても疎外されていたか、そしてそれはなぜなのかを語るが、そこに読み取れるのは類型的な――極一般的にネットで流布されている非モテ言説のテンプレートでしかない。そこからは白昼衆人環視の中で大量殺人を起す動機を読み取ることができない。もしそこから動機を読み取れるというのなら、非モテ言説を述べるbloggerのほとんどは大量殺人者予備軍であることになるが、もちろん、そ

    サバルタンとしての加藤智大 - BLUE ON BLUE(XPD SIDE)
    umeten
    umeten 2008/06/22
    「内なる主体性」があればサバルタンではない≒テロリストではないという発想がダメ。その「内なる主体性」を求める態度にこそ、サバルタンやテロリストが宿っている。
  • BLUE ON BLUE(XPD SIDE) 決断主義云々の続き(メモ)

    およそすべての決断主義についての論議においては「いかなる決断も過程の変化はもたらしても結果の変化をもたらさない」つまり「人間は何をやっても死ぬ」という観点を無視して話を進めてはならない。それは安易な物語への回帰でしかないからだ。とはいえ、そうした「物語=過程としての生」が「質=いずれ来るべき死」より優先されるのが人間の生だという面もあるのでまああれだけど、スターリンの最後の言葉のように、生とは「nonsense」なのだから、それを踏まえたうえでの悲劇的な喜劇として生の物語は描かれるべきであり、コードギアスとか「ぼくらの」とかはそれに対して(成功しているかどうかは別にして)意識的な部類だと思う。 それとも「俺は永遠に生きるぞ」とか考えてる? 「世に永遠に生きるものなし」ってダニー・エルフマンもバラライカさんもいってましたけど。 くどく繰り返していうと、エヴァが終わった、なんてのは妄想で、か

    BLUE ON BLUE(XPD SIDE) 決断主義云々の続き(メモ)
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