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ブックマーク / r-kiyose.hatenablog.com (2)

  • 檜垣(ひがき)立哉(たつや)『生と権力の哲学』ちくま新書、isbn:448006303x - 猫も歩けば...

    現代世界の権力論を、フーコーから始まって、ドゥルーズ(+ガタリ)、アガンベンと渡り、ネグリ(+ハート)の「帝国‐マルチチュード」論へと結びつけるという構想のである。 発想は東浩紀(id:hazuma)・大澤真幸『自由を考える』(NHKブックス、isbn:4140019670)と並行していて、アガンベンの「ムーゼルマン」論*1や「掟の門」論が出てくるのも共通し、議論の進んでいく方向も似ているのだけれど、このには東さんや大澤さんへの言及は一つもない。ちなみに、WWFさんの夏のの原稿のために読みはじめたのだけど、締切に間に合わなかったである。 私はこのを読んでようやく「生権力」という概念が理解できた。「生権力」というのは、たんに人を「生かす権力」なのではない。近代までの王の権力や近代国家の多くの権力が「権力の命令に違反した人には死とか苦痛とかを与える」という権力だったのに対して、「生権

    檜垣(ひがき)立哉(たつや)『生と権力の哲学』ちくま新書、isbn:448006303x - 猫も歩けば...
  • マルチチュード論はアナーキズムか? - 猫も歩けば...

    柄谷行人さんは『世界共和国へ』(岩波新書、isbn:4004310016)でネグリとハートの「マルチチュード」論を批判していた。 今回、読み直してみると、柄谷さんの批判は、ネグリとハートの「マルチチュード」論は、プロレタリア革命論のプロレタリアートを「マルチチュード」に置き換えたに過ぎないもので、その国家廃棄論はプルードンのアナーキズム(柄谷さんは「アナキズム」と書く)の過ちを繰り返すものに過ぎない、ということだ。 しかし、ネグリとハートは、『マルチチュード』で、自分たちの「マルチチュード」観はアナーキズムではないと書いている。 私は柄谷行人やネグリやハートほどものを読んでいるわけでも知っているわけでもないけれど、両方のを読んでみると、どちらの言い分にも半分賛成で半分反対というところだ。でも、少なくとも柄谷さんのについては、ネグリとハートをまじめに相手にするのであれば、もっとちゃんとそ

    マルチチュード論はアナーキズムか? - 猫も歩けば...
    umeten
    umeten 2006/11/30
    どうかな?運動に対してエンパワーメント=参加なり活動なりするなら、一般論的理解(誤解)として個々に寸断されてしまう「アナーキズム」に対して警告を発するのは当然という気もするが。
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