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ブックマーク / umiurimasu.exblog.jp (2)

  • ファンタジーの手法とゲームの手法: 「ICO」「ワンダと巨像」 | 族長の初夏

    「ICO」や「ワンダと巨像」には、あらすじ的な意味でストーリーと呼べるものがほとんどありません。でもこの二つのゲームは、その単純さにしては驚くほど深く感情に訴える力をもっているように思います。これはなぜだろう。なんとなくだけど、良質なファンタジーがもつ作用に一脈通じるものがあるんじゃないか。という話です。 ル=グウィンは「夜の言葉」の中で、「ファンタジーにおいては文体が(あらすじ的なストーリーよりも)根源的な重要性をもつ」といった意味のことを述べています。もしこれをゲームの話に置き替えるとしたら、いわゆるシナリオよりも作品世界を表現するディテールのほうが(ファンタジー的な)ゲームにとって大切である、ということになるでしょうか。もちろん、単に映像がリアルならよいというわけではなく、肝心なのはその世界にふさわしい表現であるかどうかでしょう。 ル=グウィンの言う通り、指輪物語やゲド戦記やダンセイ

  • 日本はいつから「未来」であることをやめたのか?(サイバーパンク的な意味で) : 族長の初夏

    「ブレードランナーやニューロマンサーの頃って未来の日がやたら流行ってたけど、あれってなんで廃れたの?バブルがはじけたから?」「いや、アニメやマンガがあたりまえになりすぎて目立たなくなっただけだろ」みたいなことをアメリカSF好きな人たちが言っています。日SFファンにとっても面白い話題なのではないでしょうか。で、少し訳したりしながら僕も考えてみました。米国のサイエンスフィクションはかつて、ブレードランナーからニューロマンサーまで、日に魅了されていた。 日のものはすべて、アメリカの小汚い美意識よりもクールで洒落ていて輝かしく見え、日は支配者となるべく運命づけられた存在だった。(中略) ウィリアム・ギブスンが「ニューロマンサー」の執筆中にブレードランナーを見に行ったというエピソードの中で、彼は、映画が描く未来のヴィジョンと彼の小説のそれがあまりにも似すぎていたことにショックを受け、も

    日本はいつから「未来」であることをやめたのか?(サイバーパンク的な意味で) : 族長の初夏
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