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書評に関するunder_ageのブックマーク (13)

  • 『コロージョンの夏』 - リンがなければヒ素を食べればいいじゃなイカ?

    第二回Powers受賞作。ネット上の感想をめぐってみたが、否定的な意見が多くて少し残念(感想数自体が少ないのも残念)。私はとても楽しめた。 「先行作品(ブギーポップや、ハルヒや、西尾作品などらしい)のつぎはぎ」という感想も見かけたが、私が思うに、作者は先行作品からの影響を踏まえたうえで、『芯』の通った作品を描いていると思う。少なくとも「つぎはぎ」ではない。上遠野浩平が『ブギーポップは笑わない』で初めて描いた「世界の敵」のヴァージョンアップこそが、今作の「蜂男」であるし、「真上草太郎」と「マガミ」の対立の構図は、『空気系』と『セカイ系』の構図を踏襲している(ピンとこない方は、『空気系』を『日常系』に、『セカイ系』を『非日常系』に置き換えてみてください。それらは厳密には一致しないけれど、大意はほぼ同じです)。そして重要なのは、「真上草太郎」(空気系)と「マガミ」(セカイ系)の対立において、作者

    『コロージョンの夏』 - リンがなければヒ素を食べればいいじゃなイカ?
  • SITE ZERO | セルジュ・ルクレール『精神分析すること──無意識の秩序と文字の実践についての試論』(向井雅明訳、誠信書房、2006)|柵瀬宏平

    HOME トップページへ About SITE ZERO/ZERO SITEとは Books SITE ZERO 次号予告 / Next Issue バックナンバー / B.N. 原稿募集 / Contribution 取り扱い書店 / Store 注文フォーム / Order SITE ZERO Review SITE ZERO レヴュー [記事数:53] Links リンク集 »SITE ZERO DIARY BLOG SITE ZERO/ZERO SITE 関係者が綴るダイアリー。 さまざまな情報、日々の関心を投稿します。 セルジュ・ルクレール『精神分析すること──無意識の秩序と文字の実践についての試論』(向井雅明訳、誠信書房、2006)|柵瀬宏平 2006年11月20日 精神分析という領野において、われわれは「理論」と「実践」とのかかわりをどのように考えるべきだろうか。

  • ★ 新宮一成・立木康介 『フロイト=ラカン』 講談社選書メチエ(新刊) - 書評日記  パペッティア通信:楽天ブログ

    Jun 11, 2005 ★ 新宮一成・立木康介 『フロイト=ラカン』 講談社選書メチエ(新刊) (1) テーマ:社会関係の書籍のレビュー(95) カテゴリ:哲学・思想・文学・科学 さっそく私は叱られてしまった。 ラカンを語るなら、ラカン『エクリ』を読め!ジジェクやコプチェクので代用するマネはするな!! すみません、スラヴォイ・ジジェクで間にあわせています。読む暇もありませんし、分からないし。あと、精神分析の臨床に身をおけ!と言われても… カントの「物自体」、ヘーゲルの「絶対知」に対して、フロイトは「出会い損ない」を語った。書では、フロイトの発見はジャック・ラカンに掬われることで、「再発見」されたと整理します。人間は、言語活動(夢もその一つ)で現実から引きはがされる中、どのように「現実」に到達できるのか。人間は、快感原理にしたがい死をめざすものではないか。 ラカンは、フロイトという泉か

    ★ 新宮一成・立木康介 『フロイト=ラカン』 講談社選書メチエ(新刊) - 書評日記  パペッティア通信:楽天ブログ
  • ライトノベルの形をした「物語」批判 - 大樹連司『勇者と探偵のゲーム』 - 魔王14歳の幸福な電波

    「勇者が巨大侵略UFOを撃退すれば、次の日には防衛法が整備される」「探偵が妊婦連続殺人事件を解決すれば、出生率が上昇する」などなど、社会問題を象徴する「物語」を次々と生成しては現実と直結させる「日問題象徴介入改変装置」。この装置によってライトノベル的な予定調和物語が日常のものとなり、現実と物語に対して冷め切ってしまった人々が暮らす街。といったあたりが、作の骨格となる舞台と心性です。 装置によって生成されるライトノベルの「お約束」が徹底的に揶揄的な態度で語られていくなど、作はきわめてメタライトノベル的な要素が全編に(しかも否定的に)散りばめられています。ただし、作が批判しようとする対象は決して「ライトノベル」に限られるわけではなく、むしろ「物語」の恣意的な性質そのものを糾弾しているように見えました。だから、書を「ライトノベルのお約束批判」と評して話を終えてしまう向きが多いのは、ちょ

    ライトノベルの形をした「物語」批判 - 大樹連司『勇者と探偵のゲーム』 - 魔王14歳の幸福な電波
  • 【レビュー・書評】パララックス・ヴュー [著]スラヴォイ・ジジェク - 書評 - BOOK:asahi.com(朝日新聞社)

    パララックス・ヴュー [著]スラヴォイ・ジジェク[掲載]2010年3月7日[評者]柄谷行人(評論家)■「視差」戦略的に全面的に再編成 カントは『純粋理性批判』で、たとえば、「世界には始まりがある」というテーゼと「始まりがない」というアンチテーゼが共に成立することを示した。それはアンチノミー(二律背反)を通してものを考えることである。しかし、カントはそれよりずっと前に、視差を通して物を考えるという方法を提起していた。パララックス(視差)とは、一例をいうと、右眼で見た場合と左眼で見た場合の間に生じる像のギャップである。カントの弁証論が示すのは、テーゼでもアンチテーゼでもない、そのギャップを見るという方法である。実は、そのことを最初に指摘したのは、私である(『トランスクリティーク――カントとマルクス』)。それを読んだジジェクは、書において、戦略的なキーワードとして、パララックスという語を全面的

  • 次のAmazonレビューを確認してください: 夢分析 (岩波新書 新赤版 653)

    書を一般読者が目にした場合おそらく感じられるであろう誤解。それは「夢は類型化などできないはずだ」といったものだろう。 まず、フロイトは夢の解釈の際、「連想は人に任せるべきだ」という点を強調し、その多様性を積極的に認めているのである。(詳しくは「夢判断」等を参照されたい) ただし、同時にフロイトは多様であるはずの多くの人が同じようなパターンの夢を見ることにも注目した。それが類型夢である。つまり、類型夢という発想はフロイトの勝手な妄想というよりも、むしろフロイトが観察とデータを重んじ、実証的であったことの証なのである。 夢を理論化する場合、「ひとそれぞれ」では理論にならないので、どうしても類型の方にばかり注目が向かう傾向があるようだ。一般にはフロイトは夢の象徴とその意味の対応関係を明らかにした、などと思われている。しかし、それはたいして重要なことではない。むしろ重要なことは「圧縮」「置き換

  • 【レビュー・書評】1Q84―BOOK3 [著]村上春樹 - 書評 - BOOK:asahi.com(朝日新聞社)

    1Q84―BOOK3 [著]村上春樹[掲載]2010年4月25日[評者]斎藤環(精神科医)■仮想化に抵抗する両義的な身体 『1Q84 BOOK1・2』から1年、待望の続編『BOOK3』が出版された。 すでに発行部数90万部。発売日の午前零時に店頭に行列ができる小説は、いまや『1Q84』だけだろう。批評家には賛否を呼んだが、その作品世界が人々を強く魅了していることは間違いない。 作家自身の解説によれば、作は「10歳で出会って離れ離れになった30歳の男女が、互いを探し求める話」だ。しかし前作で、ヒロイン「青豆」は「天吾」の命を救うため、首都高速の待避所で拳銃をくわえ引き金を引いたのではなかったか。 第一の驚愕(きょうがく)。青豆は生きていた。しかも「妊娠」していた。処女懐胎よろしく、再会すらしていない天吾の子を。おそらくは胎児の呼び声で青豆は死を思いとどまった。この「妊娠」を小説的必然として

  • ウォーク・ドント・ラン - 基本読書

    約30年前の村上龍と村上春樹の対談なのですが、これが二人の若さゆえの暴走感を頑張って言葉にしようとしている感じがあって、べらぼうに面白かったです。二人ともまだ若く、村上春樹氏も未だにジャズ喫茶を経営している時の話ですね。「書くことだけでっていく自信がない」なんて言っていたりして、現在から考えると「おいおいw」と思ってしまいますが、「村上春樹にも若いころがあった」という当たり前の事実を再確認しました。そんな二人の対談ですけれども、現在絶版中。今や大物の二人ですし、出せば売れるでしょうから、出さない理由はあまりにもあけすけに話し過ぎていて、二人共がこのが残ることを望まなかったからじゃあないかと余計な推測をしてしまいます。それぐらいあっけからんと色々なこと(村上龍氏はヘロインを打った話までしていた)を話していて、暴露的な面白さがありました。 なぜ小説を書くのか 龍 結局、小説ってのは、

    ウォーク・ドント・ラン - 基本読書
  • ただのオタクの行き着いた先──メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット - 基本読書

    ノベライズ。それはすでに存在する物語を、小説として語り直したもの。来の小説が、0から1を生みだすものだとするのならば、ノベライズはすでに100だか70だか60だかになっているものを、また別の形で引き継ぐ形になる。だからか、ノベライズの質はむしろ「批評」に近いのではないかと思う。優れた批評というのは、元となった物語を既に経験した人と、これから経験する人の双方を満足させることができる。メタルギアソリッドのこれまでを伊藤計劃が解釈し、新たに語り直し、そしてそこに「自分自身の物語」を挿入した結果が書です。長年映画評を書いてきた氏の実力と、作家としてデビューする過程で開花した物語創造能力の結合が、この幸福なノベライズを生みだした。傑作です。言わずもがな! ※以下追記 一日経った今でもまったく冷静になれない&別のを読む気がしないです。このは、最後の方はもうぼろぼろ泣きながら読んだ(最近泣いて

    ただのオタクの行き着いた先──メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット - 基本読書
  • COOL ONLINE - JAPAN - JAPAN ONLINE

    Tokyo, August 11, 2024 — "NEO: The World Ends With You" is a highly anticipated sequel that continues the legacy of the beloved original game. As a follow-up to the critically acclaimed "The World En...

  • 次のAmazonレビューを確認してください: 加害者は変われるか?: DVと虐待をみつめながら

    ある種の(そして少なくない)「被害者」たちは、 「”被害者”であるワタシを怒らせ、恐怖させるアイツ(オマエ)が悪い。私がこうなってしまうのはアイツ(オマエ)のせいで、私は(加害者ではなく)被害者だ。アイツ(オマエ)こそが”加害者”だ」 と繰り返す。 それらの叫びが元被害者当人たちにとって「回復のための過程」であるとしても、そうした「加害者の似姿」が「回復」の文脈を離れて流布することへの”鈍感さ”に私は耐えられない※)。 ”被害者”がまとってしまう加害者性を指摘しようにも、被害者性をアイデンティティ化してしまった人たちにとって、”加害者”とは自らとはまったく縁遠いエイリアンになってしまっていて批判の言葉は届かない。 一方で、「自らを被害者として認めてしかるべき人たち」のほうは「自分は被害者ではなく加害者ではないか?」という怖れにおののいてしまっている。そして、そこから抜け出て「自分は被害者だ

  • 天声を克えた人語 - 書評 - 日本語は亡びない : 404 Blog Not Found

    2010年03月08日22:30 カテゴリ書評/画評/品評Culture 天声を克えた人語 - 書評 - 日語は亡びない 筑摩書房松様より献御礼 日語は亡びない 金谷武洋 書に至るまで過去834点あったちくま新書の中で、最も感動した一点。 ここに、「日語が亡びるとき」は完美に論破された。 書が感動的なのは、2009年度小林秀雄賞を受賞した憂国の書を論破したという結果ではない。書の感動は、その過程にあるのだから。結果は引用できても、過程は引用できない。全世界1億4000万の日語話者は、それぞれの読み方で書を味わっていただきたい。 書「日語は亡びない」は、「日語が亡びるとき」が提示した懸念、あるいは仮説に対する、否定的かつ「ポジティブ」な回答である。 目次 はじめに 第一部 日語は亡びない 第一章 水村美苗『日語が亡びるとき』を読む なぜ日語ブームなのか/日

    天声を克えた人語 - 書評 - 日本語は亡びない : 404 Blog Not Found
  • 【書評】東浩紀:クォンタム・ファミリーズ/酒井貞道 Friday新刊チェック 2010/1/15【Book Japan】

    作者名を度外視しても面白い、パラレルワールドSFの力作 酒井貞道 Friday新刊チェック 2010/1/15 著 東浩紀 新潮社 [SF・ホラー] 国内 2009.12  版型:B6 >>書籍情報のページへ 言うまでもなく、作者の東浩紀は極めて著名な批評家であり、エンターテインメント分野にも造詣が深い。その東浩紀が初めて小説を書いたとなれば、どんなに難しい話かと、腰が引けるのが人情というものだろう。しかしあにはからんや、『クォンタム・ファミリーズ』は作者自身が折に触れて語るように、エンターテインメント小説としてもストレートに読める。 2007年、小説家の葦船往人は、2035年からのメールを受け取る。文章が混乱しているそのメールの発信者は、自らを、往人と・友梨花の間に2005年に生まれた「娘」と名乗った。しかし往人と友梨花の間には娘などいなかった。 一方2035年、葦船往人と友梨花の間に

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