2011年6月6日のブックマーク (10件)

  • 漫画原作者 震災直前の著名建築家の発言知り「殺意覚えた」

    書評】『at プラス 08』(太田出版/1365円/雑誌) 【評者】大塚英志(まんが原作者) * * * 神戸震災の時、筑紫哲也が「温泉街の湯気が立ちのぼるようだ」とコメントし顰蹙を買った長田区のあたりに今、日中立つと軽い吐き気がする。目に入る風景全てが建築家によって再設計された人工物であることの不快さは学生時代を過ごした筑波の学園都市とも重なる。それは自身に世界を設計する権利と才能があると信じている建築家という人種の不遜さだけが人の生きる場所を支配しているからだ。 そして東北の海岸線が長田区と同じ光景と化すことは後藤新平の持ち上げられ方でも充分予想がつくが、そのことを「予兆」したかのように同誌に掲載された磯崎新の地震直前のインタビューを読むと吐き気どころか「殺意」さえ覚えた。比喩でなく。 磯崎はここで「建築」とは世界そのものの制度設計であり、「国家」を表現することが「都市計画」や「建築

    漫画原作者 震災直前の著名建築家の発言知り「殺意覚えた」
    urbansea
    urbansea 2011/06/06
    最初の6行を見てどうせ磯崎だろうと想ったら、やはりそうだった。
  • 阿武教子 - Wikipedia

    阿武 教子(あんの のりこ、1976年5月23日 - )は、山口県阿武郡福栄村(のちの萩市)出身の女子柔道家。女子72kg超級、78kg級で活躍。2004年アテネオリンピック柔道女子78kg級金メダリスト。 現役引退後に結婚し、園田教子に。 小学生のころから3歳年上の姉である美和ともども、柔道界では有名な選手であった。明治大学文学部卒業。学位は学士(文学)(明治大学)。その後、警視庁に入庁。警官としての階級は警部補であり、オリンピック金メダリストとなった後に昇進した。栄典は紫綬褒章受章。その他の賞歴は世界柔道選手権優勝記録多数、アテネオリンピック柔道女子78kg級金メダル、警察功労章受章など。1996年までは当時の最重量級である72kg超級の選手だったが、その後階級の区切りが変更となったことに伴い、1997年は72kg級、1998年以降は78kg級の選手となった。国内外を問わない成果から「

    urbansea
    urbansea 2011/06/06
    山口県阿武郡福栄村(現萩市)出身
  • ジョゼフ・マクモニーグル - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "ジョゼフ・マクモニーグル" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2019年6月) ジョゼフ・マクモニーグル(Joseph McMoneagle, 1946年1月10日 - )は、元陸軍諜報局に務めていた情報官。スタンフォード研究所に配属され、米軍のための遠隔透視のプログラムに従事。フロリダ州マイアミ出身。愛称はジョー。日での通称はマクモニーグルになっているが、マクモナゴが英語の原音により忠実な日語表記である。

  • 枝野長官、今上陛下が第何代か「知らない」 - MSN産経ニュース

    枝野幸男官房長官は6日の参院決算委員会で、現在の天皇陛下が第何代なのかについて「知らない」と述べた。天皇陛下は初代神武天皇から数えて125代目にあたる。枝野氏は今年が皇紀何年(2671年)にあたるかも答えられなかった。山谷えり子氏(自民)に対する答弁。

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    urbansea 2011/06/06
    愛国の幼稚化(民主党は政治の幼稚化)>>枝野氏は今年が皇紀何年(2671年)にあたるかも答えられなかった。山谷えり子氏(自民)に対する答弁。
  • ホッケ釣って食って - 紺色のひと

    の父、すなわち僕の義父は釣りキチである。釣り好きが高じて一時期釣り雑誌にコラムを掲載していたほどだ。「娘を嫁にやるなら一緒に釣りに行ってくれる男がいい」との言葉を残した、との噂もある。このたび、そんな義父からホッケ釣りでも行かないか、とのありがたい誘いがあったので、と一緒に釣ってきた。 ホッケについて ホッケとはなんぞや、という詳しい話は割愛するとして、「ホッケの開き」といえば居酒屋メニューとして非常に馴染み深い魚だ。他にも白身がすり身として利用されたりもする。太平洋岸では関東以北、日海側では中国地方以北に分布し、ほぼ全国で漁獲されるが、北海道では特に身近である。釣りの対象としては、防波堤や磯からの投げ釣りやウキ釣り、また船釣りなどで狙われる。 はこのホッケに因縁があるという。「小さい頃お父さんに連れられてホッケ釣りに行ったら、釣ったホッケにビンタされたの。すっごく痛かった」そうだ

    ホッケ釣って食って - 紺色のひと
  • 中西学は「中心性脊髄損傷」、復帰時期未定も順調に回復~新日本プロレスが会見 | ブラックアイ2

    昨夜の試合で病院に搬送された中西学選手について、新日プロレスの三澤トレーナーが会見を行いました。 「首は痛いけど、ほかは大丈夫」 今朝までの情報はコチラで。 ■ 中西学がジャーマンで頸椎損傷~骨に異常なし、痺れも戻りつつある [ プロレス専門BLOG:ブラックアイ2 ] 新日プロレスが会見。 ■ 中西学選手は順調に回復中! 三澤威メディカルトレーナーが現在の状況を発表 [ 新日プロレス ] 三澤「昨日のリング上でも意識は清明で呼吸もしっかりしていたんですけど、上半身、特に左腕の麻痺があったのと、下半身の力が入らないということで病院に搬送しました。でも、検査をしたころにはもう手は動くようになって、麻痺も取れていました。CTスキャン、レントゲン、MRIとすべて検査をした結果、脊髄や骨に損傷は見られないということで、中心性脊髄損傷ですね。これは、脊髄へ外的に強烈なショックがあって、一時的に

  • 井出孫六 - Wikipedia

    長野県南佐久郡臼田町(現佐久市)出身[2]。旧制東京都立九段中学を経て東京大学文学部仏文科卒。政治家井出一太郎、共同通信社論説委員長の井出武三郎、医学者井出源四郎は兄、評論家の丸岡秀子は姉。厚生大臣などを務めた井出正一は甥、衆議院議員の井出庸生は甥の子。 中・高校教師、中央公論社に勤務した。中央公論社を1970年春に退職する[3]。中央公論社退職後、永山則夫連続射殺事件(1968年発生 / 警察庁広域重要指定108号事件)に関心を抱き、1970年末に犯人である永山則夫に面会、さらに弁護士から永山が獄中で綴ったノートを見せられて内容に驚き、その出版を企画する[3]。永山の獄中手記は1971年3月に『無知の涙』として刊行され[3]、永山の作家としてのデビュー作となった。 『秩父困民党群像』で文壇に登場。1975年、川上冬崖の謎の最期を描いた『アトラス伝説』で第72回直木賞。1986年、『終わり

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    urbansea 2011/06/06
    井出一太郎と兄弟であったのか。
  • 政界引退とその後:武村正義 - Wikipedia

    武村 正義(たけむら まさよし、1934年〈昭和9年〉8月26日[1] - 2022年〈令和4年〉9月28日)は、日政治家、自治官僚、政治評論家。位階は従三位。 八日市市長、滋賀県知事(3期)、衆議院議員(4期)、新党さきがけ代表、内閣官房長官、大蔵大臣を歴任。政界引退後は龍谷大学客員教授、徳島文理大学大学院教授を務めた。 滋賀県蒲生郡玉緒村(現・東近江市柴原南町)の農家に生まれた。母を小学2年、祖父を中学3年、父を高校2年のときに亡くす。兄勘一。滋賀県立八日市高等学校では日民主青年同盟に入って活動を行った。新聞部の部長だった2年生のとき、友人の書いた文章の内容が偏っているとして、担任が不掲載を求めた。武村は拒否し、無期謹慎の処分を受けた。同じ日に他の8名の生徒も、発行した機関紙が思想的に偏っているとして退学や停学などの処分を受ける。誰一人処分には納得せず、京大生や立命館大学の学生ら

    政界引退とその後:武村正義 - Wikipedia
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    urbansea 2011/06/06
    武村は細川さんと呼び、小沢は総理と呼んだ。その影響か、細川は武村と疎遠になり、小沢と親密になる。…と書いていたのは平野貞夫だったか。つまるところ政治家としての育ちが悪い。
  • なんども振り返る.震災,原発事故.自分は何を考えて,何をしたのか. - 自慢日記

    ■3/11 地震.歩いて帰宅する中,「福島原発がやばいかもしれない」と,家族と連絡を取り合う.一方で,のんきに今やらなくてもいい実験のことなどを気にしている上司と温度差を感じる.夜に帰宅. 原発関連を調べる.冷却できなくなれば数時間でメルトダウンや水蒸気爆発のリスクがあると認識.チェルノブイリの事例からいって,事故がおきれば,東京は圏内.距離だけでは安心できない. ■3/12 家族に新生児と乳児がいるため,周囲より二歩先を行く必要を感じていた.避難グッズ,オムツ,ミルク,水,灯油など必要分を購入.停電時の暖房と調理のため石油ストーブを注文. 顧客の安全を確認するためと,風向きがましなうちに週明けの仕事をしておこうという魂胆で,すこし出勤.職場の同僚の一部と情報交換.チェルノブイリクラスの事故になった場合どうするかなどを話す.家族と一緒に福島の危機と対策を検討. TEPCOのHP上にあるデー

    なんども振り返る.震災,原発事故.自分は何を考えて,何をしたのか. - 自慢日記
  • 曽根中生 - Wikipedia

    群馬県北群馬郡子持村(現在の渋川市)出身。群馬県立渋川高等学校、東北大学文学部を卒業した1962年、日活に入社。 若松孝二監督の問題作『壁の中の秘事』の脚を担当して注目を集める。 また脚家集団具流八郎の中心的メンバーとして、鈴木清順監督の日活最後の作品『殺しの烙印』の脚を手がける。 その後、監督デビューと時を同じくして日活がロマンポルノ路線に転じたため、多くのロマンポルノ作品を監督することとなった。 1972年11月には監督作『色情姉妹』が上映3日間で打ち切りとなった。これは警視庁から連絡を受けた映倫が再審査を行ったためで、指示通りにシーンをカットするとストーリーが分からなくなる、音声の再録の手間も生じるなどの事情からお蔵入りとなったものである[3]。同年には日活ロマンポルノ事件が発生していたこともあり、審査は厳しいものとなっていた。1976年には人気漫画の実写映画化『嗚呼!!花の応

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    urbansea 2011/06/06
    1990年代に業界を去り、その後、公の席に姿を現していない。映画学校の失敗で債務を背負ったといわれる。「ヤクザになった」「借金のせいで海に沈められた」などとの噂が、誠しやかにささやかれていることでも有名で