父・松本峯太郎は鳥取県日野郡日南町の田中家出身で、幼少時に米子市の松本家に養子入りした[注釈 5]。青年期に養父母宅を出奔し大阪に赴いた後[13]、日清戦争開戦の1894年、21歳の時に広島市に来て[13]、書生や看護雑役夫などをする。 当地で広島県賀茂郡志和村(現在の東広島市志和町)出身の農家の娘で[13]、広島市内の紡績工場で働いていた母・岡田タニと知り合い結婚[7][14][13]。清張の姉2人は乳児のときに死亡している[13]。 年譜では、この後「当時日露戦争による炭鉱景気に沸く北九州に移ったものらしい」と書かれ、この後に清張は生まれたと書かれている。 しかし、『読売新聞』のインタビューでは、清張自身が「生まれたのは小倉市(現北九州市)ということになっているが、本当は広島である。それは旅先だったので、その後、すぐ小倉に行ったものだから、そこで生まれたことになっている」と話している[