wikiとbaseballに関するurbanseaのブックマーク (254)

  • 福家雅明 - Wikipedia

    福家 雅明(ふくや まさあき、1959年4月10日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手(投手)、テレビディレクター、野球解説者。WES取締役社長[1]。 来歴・人物[編集] 高校→社会人野球選手時代[編集] 天理高では春夏の甲子園に4度出場。1年生の1975年夏の甲子園には控え投手として出場。準々決勝に進出するが新居浜商に敗れ、自身の登板機会はなかった。2年生でエースとなるが、1976年の春の選抜では2回戦で福井高に敗れ、同年夏の甲子園では3回戦で石川星稜に敗退。1977年、3年生時の春の選抜では準々決勝に進出するが、エース山沖之彦を擁する中村高に敗退した。同年夏は、県予選準々決勝で智辯学園の山口哲治に完封され、甲子園出場はならなかった。同期に遊撃手、四番打者をつとめた鈴木康友がいる。 高校卒業後の1978年に社会人野球の三菱自動車川崎へ入団。1980年の都市対抗野球ではリリーフで活躍。

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    urbansea 2009/11/08
    95試合 0勝 5敗 初めてプロ野球を見に広島市民球場に行った際の先発投手 広島は川口
  • 門奈哲寛 - Wikipedia

    門奈 哲寛(もんな てつひろ、1970年5月30日 - )は、静岡県出身の元プロ野球選手(投手)。 2021年現在は福岡ソフトバンクホークスで三軍用具担当を務めている。 来歴[編集] 常葉菊川高等学校から日大学へ進む。日大学時代は東都大学リーグ1部で通算34試合に登板し14勝11敗、防御率1.86、224奪三振。4年生春は4勝3敗でリーグ最多勝で最優秀投手とベストナインに選ばれる。秋は6勝2敗でチーム21年ぶり20度目の優勝に貢献し、最高殊勲選手、2季連続の最優秀投手とベストナインに選ばれる。國學院大學1回戦では当時のリーグ新記録の1試合18奪三振、このシーズン82奪三振。明治神宮大会では準決勝で延長13回を16奪三振の完投するも東海大に敗退。主将の真中満や渡邉博幸は日大学時代の同期である。 1992年のドラフト会議では横浜ベイスターズと読売ジャイアンツが2位指名で競合し、抽選で巨人

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    urbansea 2009/11/07
    巨人→ピッツバーグ・パイレーツの入団テストを受験するも不合格→オランダリーグ・ADOトルネーズで4年→クロアチアの「ナダ・スプリット」→日本の社会人野球→ソフトバンクの打撃投手
  • 正田樹 - Wikipedia

    正田 樹(しょうだ いつき、1981年11月3日 - )は、群馬県太田市出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。左投左打。 経歴[編集] プロ入り前[編集] 太田市立北中学校では軟式野球部の投手兼一塁手を務めていた[1]。桐生第一高校に進み、3年時には第81回全国高等学校野球選手権大会に出場。エースとして3完封の活躍を果たし、群馬代表として初となる全国選手権優勝に貢献。高校では1学年上のエースに小林正人、1学年下に一場靖弘と大廣翔治がおり、小林と一場がエースだった年も夏の甲子園に出場しているが、ともに初戦で敗れている。 1999年のドラフト会議で日ハムファイターズから1位指名を受けて入団。 日ハム時代[編集] 2000年は監督の大島康徳に一軍で起用され、同年のフレッシュオールスターゲームでは、1歳上の同僚實松一成と共にイースタン・リーグ選抜の先発バッテリーを務め、ウエスタン・リーグ選

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    urbansea 2009/11/07
    西田真二以来の左腕の甲子園優勝投手(99年夏)
  • 田中幸雄 (投手) - Wikipedia

    田中 幸雄(たなか ゆきお、1959年2月27日 - )は、千葉県流山市出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。 1986年から1989年にかけて同一チームに同姓同名の田中幸雄(内野手、同時在籍時の表記は「田中雄」)が在籍し、投手の田中幸の方が内野手の田中雄より背が高かったため(190cm)、オオユキと呼ばれた。 経歴[編集] プロ入りまで[編集] 流山高校では園芸科で、高校3年秋には実物鑑定の全国大会に出場した[1]。野球部では、ポジションは遊撃手と三塁手で、高校2年秋からは主将を務めた。部員は10名程度で、大会前にはサッカー部など他の部から補強し、夏の地方大会は3年連続で1回戦で敗退と、「甲子園とはまったく別の世界」[1]だった。 高校3年の春の大会で宇野勝のいる銚子商業と対戦し、0対8でコールド負けしたが、身長180センチの田中が銚子商監督の斉藤一之の目に留まる[1]。当時、社会人

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    urbansea 2009/11/06
    25勝36敗 田中富生は28勝45敗
  • 田中幸雄 (内野手) - Wikipedia

    田中 幸雄(たなか ゆきお、1967年12月14日 - )は、宮崎県都城市出身の元プロ野球選手(内野手・外野手、右投右打)・二軍監督・コーチ、野球解説者。2015年から3年間、北海道ハムファイターズの二軍監督を務めた。 現役生活の22年間を日ハム一筋で過ごし、ミスター・ファイターズ[1](ミスター日ハム[2])と呼ばれ、引退する2007年には通算2000安打を達成し名球会入りを果たしている。 経歴[編集] プロ入り前[編集] 父が旭化成に勤務しており、幼少期は延岡市に住んでいた[3]。小学校3年生の時に都城市に引越し、梅北小学校5年生の時に軟式野球チームに入った[3][4]。中郷中学の野球部では8番打者で、目立った成績を残すことはなかった[5]が、応援団でもいいから野球部のメンバーとして甲子園に行きたいと考え、一般入試を経て都城高等学校に進学した[5]。同期の新入部員は60名以上いた

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    urbansea 2009/11/06
    桑田清原と同学年 2012安打 現役時代同時に日本ハムに所属したことのある田中姓の選手は、投手の田中幸雄のほかに田中富生、田中学、田中実、田中賢介、田中聡の5名。
  • 田中富生 - Wikipedia

    田中 富生(たなか とみお、1960年4月12日 - )は、愛媛県出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 経歴[編集] プロ入りまで[編集] 南宇和高校では、エースとして1978年の春の選抜に出場、同校にとって初の甲子園出場であった。1回戦で崇徳高を降すが、2回戦では後に大学同期となる西田真次、木戸克彦のバッテリーや、1年後輩となる一塁手の小早川毅彦らを擁するPL学園に敗退した[1]。同年の春季四国大会は1回戦で高松商に敗れ、夏は県予選で敗退。 1979年に高校卒業後、法政大学に進学。東京六大学野球リーグでは在学中3回の優勝を経験。しかし1年下の和田護(日産自動車)の陰に隠れ、3年生までは目立たなかった。1982年、4年次になると39回1/3連続無失点の記録を打ち立てるなどエースとして活躍し、1982年春季リーグでの優勝に貢献[2]。同年の全日大学野球選手権大会では、決勝でエース仁村徹

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    urbansea 2009/11/06
    西田・木戸と法政同期でリーグ優勝5回…の割りに六大学通算13勝 田中幸雄(投手)と同様に日ハム→中日
  • ダリル・スペンサー - Wikipedia

    各年度の太字はリーグ最高 NYG(ニューヨーク・ジャイアンツ)は、1958年にSF(サンフランシスコ・ジャイアンツ)に球団名を変更 タイトル[編集] NPB 最高出塁数:1回 (1965年) 表彰[編集] NPB ベストナイン:2回 (1964年、1965年) 日シリーズ優秀選手賞:1回 (1967年) 日シリーズ打撃賞:1回 (1968年) オールスターゲームMVP:1回 (1965年 第1戦) 記録[編集] NPB初記録 初出場・初先発出場:1964年3月14日、対西鉄ライオンズ1回戦(小倉球場)、4番・二塁手として先発出場 初安打:1964年3月17日、対東京オリオンズ1回戦(阪急西宮球場)、3回裏に小野正一から左前安打 初打点:同上、4回裏に小野正一から左犠飛 初塁打:1964年3月19日、対東京オリオンズ3回戦(阪急西宮球場)、7回裏に小山正明から左越ソロ NPB節目の記録

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    urbansea 2009/11/02
    サイクル安打 パンチョの名付け親 自らの研究成果をまとめた「スペンサー・メモ」を遺し、阪急に「考える野球」をもたらした。これが1970年代の阪急黄金時代に大きく貢献したと言われる。
  • 森浩二 - Wikipedia

    森 浩二(もり こうじ、1962年1月1日 - )は、高知県中村市(現:四万十市)出身の元プロ野球選手(投手)。 来歴・人物[編集] 高知商高では、2年生時の1978年に、主戦投手として夏の甲子園に出場。決勝戦に駒を進め、PL学園高と対戦する。エース西田真次と投げ合い、2-0とリードして9回裏を迎えたが、優勝を目前にして逆転サヨナラ負けを喫した[1](逆転のPLも参照)。翌1979年春の選抜は、2回戦で牛島和彦、香川伸行らのいた浪商高に惜敗[2]。同年夏は県予選準々決勝で安芸高に敗退、甲子園には届かなかった。1年下のチームメートに中西清起がいる。 1979年のドラフト2位で阪急ブレーブスに入団。 1982年には一軍に上がり登板。 1983年8月に初勝利、10月には初先発を果たす。 1988年には自己最多の42試合に登板。 1989年にも40試合に登板。いずれもチーム最多であった。しかしその

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    urbansea 2009/11/01
    西田・木戸のPLと決勝で対戦した高知商の投手(2年生) その後阪急→オリックス→ヤクルト / 1球敗戦投手を2度記録しているのは森だけである。
  • 宇野勝 - Wikipedia

    宇野 勝(うの まさる、1958年5月30日 - )は、千葉県八日市場市(現:匝瑳市)出身の元プロ野球選手(内野手・外野手、右投右打)・コーチ・野球解説者・YouTuber。愛称はうーやん。 NPBにおける、史上初の遊撃手としての塁打王獲得者。 経歴[編集] プロ入り前[編集] 銚子商業高校では遊撃手、3番打者として活躍。1975年秋季関東大会県予選決勝に進むが、習志野高の鵜野稔に完封を喫し春の選抜出場を逸する。1976年の夏の甲子園に出場。エース佐藤斉(住金鹿島)の投打にわたる活躍もあり準々決勝に進むが、この大会に優勝した桜美林高の松吉啓(明大 - 明治生命)に抑えられ敗退[1]。1年下のチームメイトに、後にプロで同僚となる中堅手の尾上旭がいた。同年のドラフト会議で中日ドラゴンズから3位指名を受けて、入団する。 プロ入り後[編集] 1978年のシーズン後半から一軍に定着し、遊撃手、二

    宇野勝 - Wikipedia
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    urbansea 2009/10/08
    78盗塁に対しなんと96の盗塁死を数えている。
  • 全球団から本塁打 - Wikipedia

    全球団から塁打(ぜんきゅうだんからほんるいだ)は、あるプロ野球リーグに加盟する全ての球団から公式戦で塁打を記録することである。 日プロ野球[編集] 日野球機構(NPB)に加盟する全12球団[注 1]と公式戦で対戦し、それぞれの球団の投手から塁打を記録する。 その選手自身の所属する球団から塁打を記録することはできず、記録を達成するにはNPB他球団への移籍が必要である。加えて2005年にセ・パ交流戦制度が導入される以前は別リーグ球団との公式戦がなかったため、セントラル・パシフィックの各リーグで2球団以上所属(最少3回の移籍)する必要があった。同制度が導入されてからはリーグを問わず2球団以上所属(最少1回の移籍)すれば達成できるようになり、それ以前と比べると達成者が大幅に増えている。 達成者[編集] セ・パ12球団制となった1958年以降、2024年4月13日現在の達成者は44人(大

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    urbansea 2009/10/08
    交流戦以前は江藤愼一・富田勝・加藤英司の三人のみ 富田がこの記録を達成した試合で宇野が…
  • 木田勇 - Wikipedia

    木田 勇(きだ いさむ、1954年6月7日 - )は、神奈川県横浜市旭区[1]出身の元プロ野球選手(投手)・監督。左投左打。 史上初の新人王とMVPの同時受賞者(他には野茂英雄〈1990年〉・村上頌樹〈2023年〉のみ)[2]。 経歴[編集] 横浜一商高(現・横浜商科大学高等学校)では1972年夏の選手権県大会で準決勝に進出するが、秦野高に延長11回の熱戦の末に敗退。社会人野球の日鋼管に進み、1977年の都市対抗2回戦で電電北海道を相手にリリーフながら初登板、敗れたものの好投を見せる。1978年の同大会はエースに成長、3試合連続で完投勝利、準決勝ではリリーフに回るが田技研鈴鹿を降す。決勝では東芝の黒紙義弘と投げ合うが0-4で完封負け。準優勝にとどまるが同大会の久慈賞を獲得した[1]。同年の第25回アマチュア野球世界選手権日本代表にも選出される。 同年のドラフト会議では、大洋、広島、阪急

    木田勇 - Wikipedia
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    urbansea 2009/10/08
    78年のドラフト>>広島のドラフト1位指名を拒否したのは木田のみである。/ 通算60勝 一年目は22勝8敗4セーブ、225奪三振、防御率2.28、勝率.733
  • 佃正樹 - Wikipedia

    佃 正樹(つくだ まさき、1955年4月26日 - 2007年8月13日)は、広島県出身の野球選手(投手)。 来歴[編集] 1973年、迫田穆成監督率いる広島県立広島商業高等学校のエースとして達川光男・金光興二・楠原基らとセンバツに出場。落差のある縦カーブと抜群の制球力で準々決勝までの3試合を完封。前年地区大会から公式戦139イニング連続無失点を続けていた怪物・江川卓の作新学院高校と準決勝で激突した。五回裏二死二塁から佃が江川の外角高めの速球を振りぬき、ライト前にチーム初安打となるポテンヒットを放ち、二塁ランナー達川が生還、江川の連続無失点記録を止めた。八回裏には金光らがダブルスチールを敢行し、慌てた捕手の三塁悪送球で決勝点を奪い江川を倒した。広島商業がこの試合で江川から放ったヒットは、この回の内野安打と先の佃のポテンヒットの計2だった。非常にプライドが高く、ゲームセットでチームメイトが

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    urbansea 2009/10/03
    甲子園優勝投手 広商で達川とバッテリー 甲子園で江川を負かす その後法政 しかし江川の陰に隠れ、大差試合や東大戦くらいしか出番はなく、4年間通算0勝1敗に終わった。
  • 今中慎二 - Wikipedia

    今中 慎二(いまなか しんじ、1971年3月6日 - )は、大阪府門真市出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)・コーチ等の野球指導者、野球解説者。愛称は、先輩からは「チュー」、同級生からは「イマチュー」と呼ばれる。 現役時代は中日ドラゴンズに所属し、最多勝利や沢村栄治賞を獲得するなど、1990年代のNPBを代表する左腕として活躍した[1]。 経歴[編集] アマチュア時代[編集] 大阪府門真市の古川橋駅周辺で生まれ[2]、3歳年上の兄の影響で浜町小学校2年生の時に野球を始めた[3]。来は右利きだが、兄が右投げ用のグラブを持って行ってしまい[4]、家のこたつに迷い込んだペルシャを譲った向かいの中年女性から左利き用のグラブをもらって使い始めたことがきっかけで、左投げになった[3]。3年生になると兄と同じ軟式野球チームに入ったが、自ら望んでの入団ではなく、兄が忘れた弁当を届けに行ったところ「明

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    urbansea 2009/10/02
    91勝。
  • がんばれ長嶋ジャイアンツ - Wikipedia

    「がんばれ長嶋ジャイアンツ」(がんばれながしまジャイアンツ)は、湯原昌幸の楽曲で、プロ野球セントラル・リーグ・東京読売巨人軍の応援歌。 作詞:寺山修司、作曲:小林亜星。 解説[編集] 1975年、前年に現役を引退し巨人軍の監督に就任した長嶋茂雄及びその巨人ナインを応援しようと、大の長嶋ファンとして知られた詩人の寺山が、長嶋の巨人入団時(1958年)に長嶋の親友・石原裕次郎が吹き込んだ『男の友情・背番号3』のような応援歌を作ることを思い立ち(前年発売し大ヒットした板東英二『燃えよドラゴンズ!』(作詞・作曲:山正之)に触発されたとも言われている)、寺山と親交のある作曲家の小林、やはり大の長嶋ファンである歌手の湯原に呼びかけ、ペナントレース開幕直前の同年6月にキャニオン・レコードからリリースされた。 長嶋が2度目のジャイアンツ監督に就任した1993年にも再発売された。 長嶋人はこの曲を歌った

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    urbansea 2009/10/01
    作詞は寺山修司、作曲は小林亜星、歌唱は湯原昌幸
  • 宮澤俊義 - Wikipedia

    宮澤 俊義(みやざわ としよし、1899年〈明治32年〉3月6日 - 1976年〈昭和51年〉9月4日[1])は、日の法学者。専攻は憲法。東京大学名誉教授。立教大学法学部元教授。貴族院議員。日野球機構(プロ野球)コミッショナー。日国憲法の制定に寄与し、憲法学の権威と謳われた[2][3]。美濃部達吉門下。弟子に佐藤功、高柳信一、小嶋和司、芦部信喜、深瀬忠一など。 1899年(明治32年)3月6日、長野県長野市に生まれる。旧制長野中学、東京府立四中、第一高等学校を卒業。 1923年、東京帝国大学法学部卒業後、美濃部達吉の助手(弟子)となり、1925年、同大学法学部助教授となる。1930年から1932年にかけて、フランス、ドイツアメリカへ留学。帰国後の1934年、東京帝国大学法学部教授(憲法学第一講座)となり、美濃部達吉の後継者として憲法講座を担当した。 旧憲法下においては、批判的合理主

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    urbansea 2009/09/30
    日本野球機構の第4代コミッショナー(コミッショナー委員会の委員長)を務めていた。コミッショナー在籍時にはドラフト制度の導入、黒い霧事件が起こっている。
  • 金博昭 - Wikipedia

    金 博昭(こん ひろあき、1939年1月7日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(外野手)。 来歴・人物[編集] 帝都育英工を1年で中退し、再入学した日大二高から明治大学、日大学へ進学したが、それぞれ一年で中退[1]。 1960年に、当時は準硬式野球部であった立正佼成会へ進んだ。翌年にチームが硬式に転向し、1963年には熊谷組、1964年にはサッポロビールの補強選手として都市対抗に出場。1965年の都市対抗にエース若生和也を擁しチーム初出場。大会史上に残る大応援団のもと、1回戦で三重交通を降すが、2回戦で松下電器に敗れた。この大会では打率.528で首位打者となる[1]。また1967年には、監督兼選手としてチームを率いた。同年都市対抗に再度出場し、打率.444を記録し優秀選手となった[1]。立正佼成会のチームメートに小川健太郎、黒江幸弘らがいる。 野球部の解散決定に伴い、1967年のドラ

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    urbansea 2009/09/28
    "東北の三こん"の金の姓 >>日大三高から日本大学へ進学し、卒業後に立正佼成会へ進んだ。1967年ドラフト会議で中日ドラゴンズから9位指名を受け28歳という年齢で入団
  • 藤王康晴 - Wikipedia

    藤王 康晴(ふじおう やすはる、1965年4月13日 - )は、愛知県一宮市出身の元プロ野球選手(内野手)。 来歴・人物[編集] 1965年4月13日に愛知県一宮市で生まれる。一宮市立大和中学校卒業後は享栄高等学校へ進学し、1学年の秋季から4番・一塁手として活躍する。1982年の全国高等学校野球選手権愛知大会に出場して決勝戦まで進出するが、野中徹博を擁する中京高等学校に抑えられて敗れた。1983年の第55回選抜高等学校野球大会に出場すると、同僚の平田幸夫(のちに中央大学を経て河合楽器)の好投もあって準々決勝へ進出するが、東海大学付属第一高等学校に延長10回サヨナラ負けを喫し[1]、優勝は果たせなかった。藤王は大会記録となる11打席連続出塁を記録したほか、3試合で打率.900、出塁率.923と驚異的な記録を残した。同年夏は愛知大会決勝でまたも野中を擁する中京高等学校に敗れ、甲子園の連続出場は

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    urbansea 2009/07/31
    引退後佐川急便。営業成績は非常に優秀で、社員内では伝説化していたほど 佐川を退社後、実家の繊維業を継ぐ。03年にコンビニ店員に対して暴行した容疑で逮捕(不起訴)、06年にはなぜか演歌歌手としてCDデビュー
  • 野中徹博 - Wikipedia

    野中 徹博(のなか てつひろ、1965年5月22日 - )は、愛知県一宮市出身[1]の元プロ野球選手(投手・内野手)、高校野球監督。1989年のみ登録名は野中 崇博。台湾プロ野球での登録名は野中 尊制。 一度はプロ野球選手を引退し、野球から数年離れていたものの、台湾球界で現役復帰を果たしたのちに日プロ野球界に復帰。最初のプロ入りから数えて13年目でNPB初勝利をあげた異質の経歴をもつ選手である[2]。 来歴・人物[編集] プロ入り前[編集] 小学校2年生のときに野球(軟式野球)を始め、5年生から投手を務める[1]。この頃から中日ドラゴンズファンになり、鈴木孝政に憧れていたという。岐阜県美濃加茂市で過ごした中学時代には3年次の全国大会で準優勝を果たし、注目を集めた。中京高では2年次の1982年からエース(控え投手は同級生の紀藤真琴、森昌彦)となり、甲子園には春夏合わせて3回出場(2年次の春

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    urbansea 2009/07/31
    後に広島の紀藤が控え投手
  • 三浦将明 - Wikipedia

    三浦 将明(みうら まさあき、1965年9月17日 - )は、神奈川県川崎市幸区出身の元プロ野球選手(投手)。 甲子園ではエースとして春夏ともに準優勝に導いた 来歴・人物[編集] 川崎市立御幸中学校在学時は、同校軟式野球部に所属し投手として活躍した。 高校は県内および東京の私学校から熱心な誘いを受けるも、地元神奈川の強豪である公立の伝統校、Y校こと横浜商業高に入学。 1981年秋の新チームから、1年生ながら長身から投げ下ろす速球と縦に割れる大きなカーブを武器に主戦投手としてチームを牽引。旧くからのライバル校である横浜高を筆頭に桐蔭学園高や東海大相模高、法政二高や日大高など数多の強豪私学がひしめく秋季神奈川県大会を制する。引き続き行われた第34回秋季関東地区高校野球大会決勝で、2年生日野伸一投手(のち東洋大)擁する上尾高に延長12回0-1でサヨナラ負けを喫するも準優勝を果たした。翌春行われる

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    urbansea 2009/07/31
    高校野球の見始めは、野中と三浦だった。 藤王・山本昌と同期入団 清原和博に、甲子園初ホームランを打たれた投手
  • 高橋直樹 (野球) - Wikipedia

    高橋 直樹(たかはし なおき、1945年2月15日 - )は、大分県佐伯市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 経歴[編集] プロ入り前[編集] 中学時代は大分県全県の模試で26番になり、津久見高校普通科の入学試験ではトップの成績で合格。入学当初はオーバースローであったが、アンダースローに転向する[1]。 1963年の夏の甲子園に出場。1回戦で中京商の三輪田勝利と投げ合い3-4で逆転負け[2]。1年下のチームメートに控え投手の池田重喜、三塁手の中村国昭がいた。当初は東京大学への入学を検討していたが、中学校の頃か早慶戦に憧れていた高橋は神宮のマウンドに立つべく、翌年の一般入試て早稲田大学商学部へ進学、三輪田と大学同期となる。他の同期には外野手の林田真人らがいる。東京六大学野球リーグでは八木沢荘六、三輪田の控えに回り、12試合に登板して2勝2敗。 1966年春季リーグでは田淵幸一に第

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    urbansea 2009/07/26
    1974年8月18日には、近鉄戦で史上唯一の「一人で1試合の勝利投手とセーブ投手を独占」を記録している(この年オフに規則が改定され、一人で勝利投手とセーブ投手を独占することは認められなくなった。)