wikiとhorse-raceに関するurbanseaのブックマーク (154)

  • 資生園早田牧場 - Wikipedia

    資生園早田牧場(しせいえんはやたぼくじょう)は、1917年から2002年まで存在した競走馬の生産牧場。 場は福島県に置いていたが、1977年に格的な生産に着手してから最大拠点は北海道新冠町にあった。1990年代以降、レオダーバン、ビワハヤヒデ、ナリタブライアン、シルクジャスティス、マーベラスサンデー、シルクプリマドンナといったGI競走優勝馬を次々と輩出。有力種牡馬のブライアンズタイムも擁し、一時は社台ファーム(社台グループ)に次ぐ国内第2位の生産者として日高地方を代表する牧場となった。しかし急激な拡大方針から資金難に陥り、2002年11月に倒産した。 創業家の早田家は江戸時代に幕府天領の銀山の差配を任されていた旧家であり、広大な山林や農地を所有する地主であった[1]。当主は代々「早田伝之助」を名乗り、1917年に第9代早田伝之助が「資生園早田牧場」を創業。ただし、牧場としては小規模で、

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    urbansea 2009/06/12
    2002年 自己破産を申請 競馬を憶えた頃、生産者欄にて川上悦夫と早田牧場とが輝いて見えていた 破産後にノーザンファームに引き取られたビワハイジの仔の活躍を早田はどう想うのか
  • グレートホープ - Wikipedia

    4月に条件戦で復帰、2着となるが、その後2連勝して当時特別戦だったダイヤモンドカップに出走するもシンガリ負け(勝ち馬スイフトセイダイ)に終わった。条件戦1勝を挟んで出走した東北優駿もミタケエルセンの4着、更に条件戦1勝を挟んだ後のサマーカップでもサカモトランナーの4着に終わった。しかし、条件戦2勝を挟んで出走した不来方賞、ダービーグランプリではいずれもスイフトセイダイに敗れたものの、それぞれ0.4秒、0.2秒の僅差で2着、3着と善戦し、そして桐花賞ではスイフトセイダイが東京大賞典出走のために一時大井競馬場に移籍、不在となっていたこともあり、下り坂となっていたトウケイフリートを破り重賞初勝利を挙げた。

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    urbansea 2009/05/23
    「スイフトセイダイとのSG2強といわれるが、24回対戦して、先着したのはわずか8回である。しかし、みちのく大賞典の1着同着など、強者が強者を作る、の典型的な名コンビだったといえよう。」
  • モリユウプリンス - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "モリユウプリンス" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2015年7月)

    モリユウプリンス - Wikipedia
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    urbansea 2009/05/23
    トウケイニセイと15回走って、先着は2回。私が岩手競馬のファンだったならば、モリユウプリンスを買い続けていたのだろうか。
  • トウケイニセイ - Wikipedia

    トウケイニセイは1990年代初期から中期にかけて岩手競馬で活躍した競走馬、種牡馬である。 2000年以前の馬齢は旧表記を用いる。 出自[編集] 父・トウケイホープは南関東・岩手において東京大賞典、報知オールスターカップ、関東盃、東北サラブレッド大賞典、桐花賞、シアンモア記念などで53戦22勝と活躍したが、血統的に二流であったこと、また競走実績が地方競馬のみであったため、種牡馬となった際に繁殖牝馬がなかなか集まらず、そのためオーナーである小野寺喜久男が馬産地を駆け回って交配相手を探し回り、やっとの思いで5頭の交配相手を集めた。その際、小野寺は「自分も辛い、でも一番辛いのはホープなんだ」と周囲に語っている。その後も種付け数は伸びないまま心臓麻痺で急死。生涯の種付け数は12で[1]、そのなかで4頭の産駒が競走馬として登録されたが、そのうち唯一の牡馬がトウケイニセイであった[2]。 母・エースツバ

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    urbansea 2009/05/23
    [39-3-1-0] デビューから18連勝、2着1回を挟んで11連勝。父(トウケイホープ)も岩手競馬の活躍馬というのがいい。唯一の連はずしは9歳の時の南部杯(勝ち馬はライブリマウント)
  • サンドピアリス - Wikipedia

    春にダートで2勝したサンドピアリスだが、芝では京都4歳特別で0秒5差とはいえ9着に敗れるなど2戦2敗であった。秋は900万下のダートに3回出走するが、いずれも掲示板外に敗れている。そんな馬がエリザベス女王杯に使われたのは、馬主のヒダカ・ブリーダーズ・ユニオンが「(一口馬主としての)初年度募集馬をGIに出走させたい」と考え、また、吉永忍調教師も「主戦騎手の岸滋彦[注釈 2]をGIに出走させてやりたい」と考えた為であった。そんなサンドピアリスは「20頭立ての20番人気」と人気が全くないのも無理はなく、関西テレビの杉清アナウンサーは、最後の直線で「外を通りまして3枠から一頭サンドピアリスだ…、おおなんとサンドピアリスだ」と一瞬絶句した後にサンドピアリスの名前を伝え、ゴール前では「しかしびっくりだ、これはゼッケン番号6番、サンドピアリスに間違いない!」と実況した。後に杉は著書で「なんぼなんでも

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    urbansea 2009/05/23
    二度あることはサンドピアリス 生産者ですら他の馬の馬券を買ったと別冊宝島にあったか
  • ドクターフェイガー - Wikipedia

    ドクターフェイガー(またはドクターファーガー、Dr. Fager、1964年4月6日 - 1976年8月5日)はアメリカ合衆国の競走馬、および種牡馬。短距離戦において無類の強さを誇り、1971年にアメリカ競馬殿堂入りを果たした。 ドクターフェイガーは1964年、フロリダ州のタータン・ファームズで誕生した。調教師ジョン A.ネルードの命を救った神経外科医がチャールズ・フェイガー博士であったことから、ドクターフェイガーという名が付いた。 母のアスピディストラは競走馬としては2勝に終わった馬であったが、ドクターフェイガーを含めて4頭のステークス競走勝ち馬を出した名牝であった。代表的な兄妹に、アメリカ殿堂馬のタウィーがいる。 ドクターフェイガーは1966年7月15日にアケダクト競馬場でデビュー。馬なりのままスタートから飛ばして行き、ゴール時には7馬身差をつけていた。次戦の6ハロン戦(約1207メー

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    urbansea 2009/05/23
    牝系にタヤスツヨシ 男くさい競走。よく知らんけれども>>世紀の対決と言われる、ダマスカス(1967年年度代表馬)、ドクターフェイガー(1968年年度代表馬)、バックパサー(1966年年度代表馬)のウッドワードステークス
  • 藤田正明 - Wikipedia

    藤田 正明(ふじた まさあき、1922年(大正11年)1月3日[1] - 1996年(平成8年)5月27日)は日の実業家、政治家。フジタ、藤和不動産相談役[1]。広島地方区選出の自由民主党参議院議員。第16代参議院議長(在任期間・1986年7月22日 - 1988年9月30日)、総理府総務長官、沖縄開発庁長官、自由民主党参議院議員会長を歴任。 広島県広島市出身[2]。父・定市は広島県賀茂郡黒瀬町(現:東広島市)出身で、広島市で土木建築請負業を営んでいた[3]。 修道高校卒業。1944年、早稲田大学商学部卒業[1][2]。藤田組(現:フジタ)入社[2]。1945年8月6日の広島市への原子爆弾投下により、東白島町の藤田家は倒壊した[4]。1962年、同社副社長に就任[1][2]。 1965年、参院選広島県地方区で初当選、以降連続4度当選。大平派(のち鈴木派)に所属し大蔵政務次官、参院大蔵委

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    urbansea 2009/05/10
    藤和不動産社長・フジタ工業副社長 大平派 参院議長(86-88) トウショウボーイのトウショウ牧場のオーナーブリーダー
  • カウンテスアップ - Wikipedia

    当初は岩手競馬の千葉忠一厩舎に所属。3歳の1983年8月、盛岡競馬場でのデビュー戦は2着だったが、その後は年を挟んで11連勝。1戦2着を挟んだのち特別戦を勝って上山競馬場の東北優駿へ駒を進めた。迎え撃った新潟県競馬のグレートローマンを1馬身半差の2着に退け、東北4歳馬の頂点に立った[2]。その後も連勝を重ね、暮れの桐花賞も古馬相手に優勝[1]、岩手ナンバーワンとなった。岩手所属時は三野宮通、千葉次男、小竹清一の3騎手がレースで騎乗していた。 いわゆる交流重賞の制度が確立した現在なら地方競馬所属でも中央競馬の対象レースに出走出来るが、当時は移籍しなければならなかった為、1984年一杯で賞金の高い南関東の大井に移籍する事となった。岩手競馬での戦績は18戦16勝(2着2回)[3]。この翌年、カウンテスアップが去った岩手ではトウケイフリートが新たに台頭しこちらも長く活躍したが、カウンテスアップとの

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    urbansea 2009/05/09
    父フェートメーカー 馬主 佐橋五十雄 83-87年 生涯成績41戦29勝
  • サニーブライアン - Wikipedia

    サニーブライアン(欧字名:Sunny Brian、1994年4月23日 - 2011年3月3日)は、日の競走馬、種牡馬[1]。 1997年の皐月賞(GI)と東京優駿(日ダービー、GI)をともに人気薄で制し二冠を達成、同年のJRA賞最優秀3歳牡馬に選出された。主戦騎手は大西直宏で、すべてのレースに騎乗した。 現役時代[編集] 皐月賞まで[編集] 1996年10月5日、東京競馬場の新馬戦(芝1800メートル)にて3番人気でデビュー。同競走にはウイニングチケットの全妹スカラシップも出走していたが、スタートから先頭に立ち、逃げ切り勝ちを収めた。その後、3歳500万円以下の百日草特別で5着、続く府中3歳ステークスに出走し、スピードワールドに次ぐ単勝2番人気に推されたが小倉3歳ステークス優勝馬ゴッドスピードの7着に敗れた。 その後、3歳500万円以下条件のレースを2度使うも勝つことができず、2勝目

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    urbansea 2009/05/07
    馬主の宮崎守保は、サニーブライアンがダービーを勝利した時、サニーブライアン1頭しか現役競走馬を所有していなかった。このような例でダービーを勝利したのは史上初
  • 高田久成 - Wikipedia

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    urbansea 2009/05/06
    テンポイント・プリティキャスト・キングスポイントの馬主 どこの大金持ちかと想ったらば、中外炉工業の取締役だった。2007年没。
  • サクラスターオー - Wikipedia

    母のサクラスマイルは、1978年に北海道静内町の藤原牧場で生産された牝馬で、父はインターメゾ、母はアンジェリカである[6]。クレイグダーロッチから派生したスターロッチの牝系であり、アンジェリカから産まれたサクラスマイルの兄弟には、1981年優駿賞最優秀スプリンターのサクラシンゲキ、1986年優駿賞最優秀5歳以上牡馬のサクラユタカオーがいた[7]。兄弟と同様に「サクラ」の冠名を用いる株式会社さくらコマース(代表:全演植)が所有し、美浦トレーニングセンターの境勝太郎厩舎からデビュー[6]。1981年のラジオたんぱ賞、京都牝馬特別、エリザベス女王杯で3着となるなど、29戦4勝[6]、生まれ故郷の藤原牧場で繁殖牝馬となった。 初年度は、全が交配相手を選択[8][9]。かつてさくらコマースが所有し、1978年優駿賞最優秀4歳牡馬のサクラショウリと交配した[10]。境の言う「のんびり屋」のサクラスマイ

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    urbansea 2009/05/04
    双子(もう一頭は母体内で間引かれる) こういう書籍があったのか>>『天に舞え~悲運の名馬サクラスターオー~』(著 東葉子(東信二夫人)) ←どうも児童書らしい
  • スイフトセイダイ - Wikipedia

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    スイフトセイダイ - Wikipedia
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    urbansea 2009/05/02
    淡々としながらも、いい記事。負けても負けても挑み続けた岩手の怪物。負けっ放しの馬をアイドル化するのがいかにバカバカしいか。それからちゃんと余生を過ごせているのがなによりだ。
  • ゴッドスピード (競走馬) - Wikipedia

    1996年7月の小倉競馬場の新馬戦でデビューしたが16頭立ての14着と惨敗。3戦目からブリンカーを装着し、4戦目で逃げ切り初勝利を挙げた。続く小倉3歳ステークスは11頭立て単勝9番人気の低評価であったが、差し切り優勝。次走デイリー杯3歳ステークスでは13着に敗れたが、府中3歳ステークスでは前半1000m通過61.5の流れを3番手からの競馬で優勝[4]。しかし以降のクラシック三冠では苦戦し、東京優駿(日ダービー)では最下位に敗れた。 1998年1月の平安ステークス7着を最後に障害入り。同年2月28日の障害3戦目で突如2着に3.7秒差をつける圧勝をみせ、格上挑戦した阪神障害ステークス(春)にも勝ち、6月6日のオープンまで、重賞2勝を含む5連勝を記録。しかし春秋連覇を狙った阪神障害ステークス(秋)では落馬してしまう。中山大障害(秋)も5着に敗れる。 翌1999年、障害オープン特別を連勝して復活

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    urbansea 2009/04/21
    川上悦夫が生産 「現在は宮城県大崎市の斎藤牧場に繋養されている」
  • 安田富男 - Wikipedia

    安田 富男(やすだ とみお、1947年10月7日 - )は、千葉県船橋市出身の騎手、評論家。 オッズの低い騎乗馬でしばしば好走を見せ、「穴男」、「泥棒ジョッキー」などと称された。史上初めてJRA全10場において重賞を勝利した記録も持つ。 安田は男3人、女1人の四人兄妹の次男として生まれ、父・保男は香具師やブリキ職人、子供が生まれる頃にはアルミ職人など手作業をして[1]生計を立てていた。保男は天理教に帰依していたが[2]、母・梅世は創価学会に入信しており、四人の子が物心つく前から祈る事の大事さを教えた[1]。競馬とは無縁の一般家庭であったが、保男が無類の馬券好きで身上を潰したため、安田は小さい頃から競馬がどんなものか知ろうとも思わなかった[3]。船橋市立船橋小学校時代は掛け算が7か8の段になると分からなくなるほど苦手で、勉強に興味がなく、将来の夢を描く余裕も無く「日々の生活を惰性で楽しく生き

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    urbansea 2009/04/19
    JRA史上初の全場重賞制覇について、安田自身は「フラフラしていたから達成できた落ちこぼれの勲章」
  • 浅見国一 - Wikipedia

    1935年、京都の相羽仙一厩舎に入門して騎手見習いとなり、1942年に正騎手となった。同期には境勝太郎がいる。しかし直後に勃発した太平洋戦争により徴兵され陸軍に入隊、終戦までをビルマで過ごした。復員後厩舎に戻り、1946年の競馬再開と共に再び騎手として活動を始めると、1950年にハイレコードで菊花賞に優勝し八大競走を初制覇。1958年にコマヒカリで再び菊花賞を制し、1960年、1961年には2年連続で関西リーディングジョッキーを獲得した。1961年はヤマニンモアーで天皇賞・春に勝利している。 師匠であった相羽仙一の死去によって1964年に騎手を引退し調教師に転向すると、開業初年度からヤマニンルビーで京阪杯を制し重賞を初優勝。4年目の1967年にはヤマピットで優駿牝馬(オークス)を制し八大競走に勝利。その後もオークス優勝馬ケイキロクや、平地・障害双方で活躍したメジロワース、「天才少女」と呼ば

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    urbansea 2009/04/12
    騎手として関西リーディングジョッキー2回 調教師時代にエアロフォームを日本に導入 馬運車による競走馬の当日輸送を始めたのも浅見先生(それ以前は貨車によって前日輸送)
  • ウインドインハーヘア - Wikipedia

    現役引退後はアイルランドのクールモアスタッドで繁殖牝馬となった[12]。1996年3月9日に初仔のグリントインハーアイ(父・アラジ)が誕生し[15][16]、翌年以降も2番仔・ヴェイルオブアヴァロン(父・サンダーガルチ)、3番仔・レディブロンド(父・シーキングザゴールド)、4番仔・スターズインハーアイズ(父・ウッドマン)を出産し、1999年には5番仔・ライクザウインド(父・デインヒル)を受胎していた[17][15]。しかし初仔のグリントインハーアイがイギリスでデビューするも3歳秋時点で7戦0勝と振るわない成績で引退、2番仔のヴェイルオブアヴァロンも2歳戦で4戦2勝、G1フィリーズマイルで最下位に惨敗していたため[15][18]、クールモアは早々に見切りをつけウインドインハーヘアの売却を模索し始める[18]。この売却について山田は、クールモアがバラクレアの系統はハイクレア牝系の中でも傍流にな

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    urbansea 2009/03/25
    出走した6戦はすべて1200mの競走で、わずか3ヵ月半の現役生活だった。
  • カツアール - Wikipedia

    馬齢は旧表記を用いる。 3歳となった1978年に大井競馬場でデビュー。同年は3戦2勝。4歳時は黒潮盃を優勝し南関東三冠競走の羽田盃と東京ダービーでは1番人気に推されたがそれぞれ4着、3着に終わった。ともにイーグルシャトーの半兄ソウルシヤトーが優勝している。8月には戸塚記念で重賞2勝目を挙げたが、東京王冠賞7着、東京大賞典6着に敗れた。同年は12戦3勝。 古馬となった1980年の5歳時は充実し、ダイオライト記念、帝王賞、大井記念、中央競馬招待競走、特別戦と5連勝を記録したが、年末の東京大賞典は4着に敗れている。同年は9戦5勝。 1981年は中央競馬に移籍し、3戦目の天皇賞(春)ではカツラノハイセイコの2着となると、次走の宝塚記念ではカツラノハイセイコを逆転し優勝した。地方競馬出身による宝塚記念優勝はヒカルタカイ、ハイセイコーに続く3頭目であった。しかしその後は振るわず、同年は2戦して未勝利、

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    urbansea 2009/03/24
    78年大井-81年中央入り 天皇賞・春2着 宝塚記念優勝(公営出身ではヒカルタカイ・ハイセイコーについで3頭目) で、ダービースクエアーの掲示板に「カツアール」を名乗る親切なひとがいたのを想い出した。
  • ヒカリデユール - Wikipedia

    大井競馬場でデビューすると短期間で出走を重ね、敗戦と勝利を繰り返しながら賞金を重ねていった。4歳時には南関東三冠競走で4、4、2着となり、5歳時には東海公営の重賞、東海桜花賞(中京競馬場)に勝利。また、この年の東海ゴールドカップでは出走すれば大命と目されたヒカリデュールがレース当日に出走を取り消したことで1番人気に押されたダイサンフジタカの鞍上、井手上慎一騎手が笠松競馬場の周回を誤認する事件が起きた。 6歳時の1982年秋に中央競馬・栗東トレーニングセンターの須貝彦三厩舎へ移籍することになる。地方での通算成績は38戦7勝で重賞勝利は東海桜花賞のみと、圧倒的な実績を持っていたわけではなかった。しかし地方時代の関係者は、従前に中央へ移籍して重賞戦線で活躍していたカズシゲ(ダービー馬・ダイナガリバーの半兄)よりも通用すると評価していた[1]。なお、馬の勝った1981年の東海桜花賞は中京芝20

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    urbansea 2009/03/24
    サラ系大井から中央(須貝) 朝日CC1着-天皇賞・秋2着-JC5着-有馬記念制覇と河内を背に一気に駆け上り、年度代表馬(公営出身は20年ぶり・サラ系では初) 牝系からは菊花賞馬2頭 種牡馬引退後行方不明
  • ユメロマン - Wikipedia

    ユメロマン[1]は日の競走馬。北海道北海道静内農業高等学校畜産科(現在は生産科学科)[3]および馬術部[4]の生徒によって授業の一環で種付け、生産、育成された[3][4]サラブレッドである。 2003年のサマーセールにおいて田中春美(騎手・田中勝春の実父)に[5][4]250万円[3](消費税別[5])で売却され、美浦トレーニングセンターの宗像義忠厩舎に所属し[3][6]、中央競馬で競走生活を送った。 デビュー戦は2005年2月13日[3][4]、東京競馬第6競走の3歳新馬戦で単勝4番人気ながら1着となり[6][3]、メディアに「高校生の生産馬が勝利」などと報じられた。騎乗していたのは田中勝春であった[6][3][4]。 その後はなかなか勝利を挙げられなかったが、2005年12月10日、中京競馬第8競走の条件戦(サラブレッド系3歳上500万円以下・芝2500メートル)でダヴィ・ボニヤを

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    urbansea 2009/03/24
    北海道静内農業高等学校畜産科の生産馬 26戦3勝 父はジェネラス 母がマルゼンスキー・サクラユタカオー・アンバーシャダイを持つ、ダビスタみたいな馬。 
  • ジェネラス - Wikipedia

    ジェネラス (Generous) とは、アイルランド産のサラブレッドの競走馬。種牡馬カーリアンの代表産駒の1頭である。1991年のダービーステークスとアイリッシュダービー、キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスを制した。近親にトリプティク、半弟にオースミタイクーンがいる。 2歳5月にデビュー。2歳時はチャンピオン決定戦デューハーストステークスを単勝51倍の人気薄ながら優勝したのをはじめとして6戦3勝の成績を残した。明け3歳では、緒戦のイギリス2000ギニーでミスティコの4着に敗れるが、イギリスダービーを5馬身差で快勝。ここからジェネラスの領が発揮される。アイリッシュダービーではフランスダービー馬スワーヴダンサーとの頂上対決を制し、史上11頭目のイギリス・アイルランド両ダービー優勝馬となった。キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスは単勝1.7倍の

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    urbansea 2009/03/24
    英国ダービーを勝ち、愛国ダービーでスワーヴダンサー(仏ダービー馬)を負かす。その後キングジョージを圧勝。凱旋門賞はスワーヴダンサーに破れるも、レイティング139。90年代ではパントレセレブルと並んで1位。