2007年6月7日のブックマーク (4件)

  • 想像力を断つことの不可能性 - モジモジ君のブログ。みたいな。

    sivadさんから再応答をいただいた*1。x0000000000さんの書かれた記事にも大筋で賛成するのだが、あえて別様に考えてみた。sivadさんの議論は、そもそも「想像力を断つことが可能である」という前提を必要とする。だから、そこで成功や失敗を言うことができることになる。しかし、想像力を断つことがそもそも不可能だ、ということを考えてみる。 「切断」というのは単に反発することではありません。それに対する「想像力を断つ」ことです。想像力の働かないところには倫理的態度は生まれない。そしてそこには功利的態度が残ります。例え社会的形式的な応答としての「言い訳」や「逆ギレ」があったとしても、そこに「想像力」が働いていなければ「重苦しさ」を伴う「倫理」は発生しないのです。私はその場合はやはり「失敗」であると思います。/もちろん、コレが確実に成功だ、失敗だと認定する方法はやはりありません。/しかし、「失

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    usaurara
    usaurara 2007/06/07
  • 「呼びかけ」は無謬だろうか? - 赤の女王とお茶を

    再びお返事をいただきました。 やはり違和感があります。 この違和感は埋まるものかもしれないし埋まらないものかもしれませんが、この対話は論破や説得を目的としたものではなく、違和感を明らかにすること自体を価値と考えます。 まず、前段に関しては、おっしゃるとおり。 ただ、その部分はmojimojiさんの前回のエントリの こういう人に向かって、「仕方ないんだよ」と(だけ)言うことは、何の意味もない。 という辺りも受けていますので、「感じる人」「感じない人」の判別不可能性をいうのならここでもそれを適用し、「仕方ないんだよ」ということの意味を認める必要があると思います。 その上で、前回のように区別する必要が少ないことには同意します。 ただし、「完全に判別」することは出来なくとも、ある程度「判断」することが無意味だとは思いません。「呼びかけ」の方法について考慮する余地があるからです。 われわれは神ではな

    「呼びかけ」は無謬だろうか? - 赤の女王とお茶を
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    usaurara 2007/06/07
  • http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070606-00000086-jij-soci

    usaurara
    usaurara 2007/06/07
  • 国語教育について - 内田樹の研究室

    大学院のゼミでは国語教育について論じる。 国語力の低下が子どもたちの学力の基盤そのものを損なっていることについては、すでに何度か言及した。 何が原因なのかについては諸説があるが、「言語のとらえかた」そのものに致命的な誤りがあったのではないかというラディカルな吟味も必要だろうと私は思う。 「いいたいこと」がまずあって、それが「媒介」としての「言葉」に載せられる、という言語観が学校教育の場では共有されている。 だが、この基礎的知見そのものは果たして妥当なのか。 構造主義言語学以後(つまり100年前から)、理論的には言語とはそのようなものではないことが知られている。 先行するのは「言葉」であり、「いいたいこと」というのは「言葉」が発されたことの事後的効果として生じる幻想である。 とりあえずそれがアカデミックには「常識」なのだが、教育の現場ではまだぜんぜん「常識」とはされていない。 私が何かを書く

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    usaurara 2007/06/07