最新の調査では日本の45~59歳の「幸福度」が過去最低に。番組には、子育てでキャリアを諦めた後悔や就職氷河期に翻弄された怒りなど、多くの声が届いています。生き方が多様化して人生の「正解」が分からず、誰にも相談できない…。自らも50代後半、これからの人生に悩む経験をし“前向きに年を重ねよう”と発信する小泉今日子さんは何を語る?中高年の心の危機“ミッドライフクライシス”。これからの“老い方”を考えました。
むかし、「35歳を過ぎると、急に頑張らなくなる」という話を書きました。 「中年の危機」です。 なぜ35歳を超えると頑張らなくなるのか。それはロールプレイングゲームの終盤と同じだから。 私の世代であれば、ドラゴンクエストや、ファイナルファンタジーといったRPGに熱中した方も多いだろう。 だが、私は「最後までやりきったゲーム」が異常に少ない。 なぜなら、いつもラストダンジョンになると、やる気を失ってしまうからだ。 序盤はとても面白い。自分が強くなる実感が得られるし、新しい世界が次々に広がっていく。 ところが、中盤を経て、終盤になると、とたんにゲームはつまらなくなる。 作業的なレベル上げ。 探検しつくされた世界。 有り余るお金。 そうだ。 操作するキャラクターは強くなっているはずなのに、そこには「可能性」が無くなっているのである。 キャラクターが育ち、謎がとけ、世界の広がる可能性だ。 「可能性」
以前からずっと思っていたことなのですが、どこかで書いておかないと忘れちゃうなと思っていたので、備忘録代わりに。 結論から先に言えば「無目的なインプットをやってこなかった人は、肝心カナメの時期にアウトプットできなくなる」という話です。どうしてそういうことになるのか、順に説明しましょう。 まず、いわゆる「勉強」について、ここでおそるべき一つの法則を提案したいと思います。それは「アウトプット=インプットの法則」です。一体どんな法則なのかというと「人生全体で見てみれば、アウトプットの量とインプットの量は同じである」ということです。アウトプットする人はインプットしているし、インプットしていない人は、どこかで枯れる」ということで、実にシンプルな法則。 実名を挙げるのはさすがに憚られるので、ここでは差し控えますが、一時期にベストセラーを連発して飛ぶ鳥を落とすような勢いだったのに、ぱったりとアウトプットが
7/11 なんかツイッターの有名な方に拡散していただいたようでありがとうございます!!!とんでもないことになってしまった… 子育て終わった開放感で書き殴った日記がこんなことになるとは思ってもみませんでした。 取材に関しては、別の媒体で内容を掲載されることで息子に微妙に違ったニュアンスでこの日記の内容が伝わってしまうもしれないリスクがあるので申し訳ありませんがお断りさせてください。 ひぇーーーー!なんかめちゃくちゃ読まれてる!!今更恥ずかしい!! お祝いのコメントありがとうございます!!! めちゃくちゃ嬉しいです!!! 子どもはインスタとかビーリアル(ビリアル?かどっちか)をちょっとしかやってないらしいし、仕事に関する勉強で忙しいらしいからこの日記も読まれないと思ってはいるけど、もし読んじゃったら教えてね!!! 私が本当は愛せるか分からなかったし子供産むの怖かったって話はちょっと前チラッとし
はじめに 今日、勤務先の制度上、定年を迎えました。大昔は、誕生日をもって定年でしたが、最近は定年を迎える月の末日ということのようです。 早いもので、35年と3か月(423か月)、雇われる身として、働いてきました。ちなみに、国民年金の満額は、480か月ですので、満額は貰えません。 今月末に定年エントリーを各予定です。 若い頃の働き方が定年までできるのはほぼ無理です。 家族が増えたり、家の購入、子供教育、親の介護などいろいろな事が起こります。 起こる前提にしておかないと、辛いだけです それから勤務先からの要求も変わっていきます。 という内容を残したいと思います。— Vengineerの妄想 (@Vengineer) 2024年6月9日 定年を意識したのは、パンデミックの2年目です。おこちゃまが大学進学のためにお家から出て行ってからです。 最初に定年について書いたのが下記のブログです。 veng
中学を卒業するタイミングで高校に通えなくなってなにをどうしたらいいかわからなくて家でずっといた 親もいなくて家でひとりでテレビを見ていた 履歴書さえ持っていけば雇ってくれたとこでバイトをはじめた でも要領が悪いとかですぐクビになった 少しだけ得たお金で米を買った 電気が止まったのでろうそくを買った 本当にバカでなにをどうしたらいいかよくわからなかった 中学の時の友達が家に遊びに来て色々相談に乗ってくれた 結局ふたりでバカな話して笑って終わった でもそれで元気は出たんだけどだんだん食べ物に困ってきた やることがないので元々親のものだった長いコートを着て毎日外でうろうろしてた 髪が伸び放題だったのでだいぶ怪しげな雰囲気になってたと思う 近所のスーパーに入ってカレーのルーを見たときにどうしても食べたくなった それでそのルーのパックを盗もうと思った 米がまだ残ってるからカレーが作れると思った スプ
残り時間がどれぐらいかわからないなかで、どう日々を過ごし、年を取っていくか。 1975年生まれの私は、今、40代最後の時間を過ごしている。40代のはじめのうちは、中年になったことの驚きがあり、そこに今までに無い面白さを見出していた。その驚きと面白さを言語化したのが『「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?』だったが、5年以上の歳月が流れ、当時の驚きと面白さは過去のものになった。老年期が始まった時に再び面白さと驚きを発見するかもしれないが、現在の私は中年期のたぶん真ん中にいて、とにかく中年をやっている。 そうしたなか、40代最後の時間を全力で駆け抜けてきた。寿命が縮むような橋も渡ってしまっただろう。そのかわり自分がやりたいことをやりたいように・悔いの残らないように挑戦できたのはとても良かったと思う。 年を取っていくスタンスには大きな個人差があり、年齢の数字にこだわ
5歳で母を亡くし、松山市のファミリーホームで育った大学生の梨菜(20)には、ずっと大切にしている手紙がある。母の順子が34歳で亡くなる直前、将来の娘を思い浮かべてしたため、20歳まで毎年の誕生日に届けるよう弁護士に託していた。その最後の1通が2023年12月、梨菜の元に届いた。 【写真】児童養護施設に入所していた頃の梨菜さん。あまり感情を表に出さなかった(2010年、神戸市で)=梨菜さん提供 梨菜は今、児童福祉司を目指し、福岡のマンションで一人暮らしをしながら、大学に通う。アルバイトをかけ持ちし、課題のリポートや実習をこなす。化粧品の販売員をしていた母の影響だろうか。メイクの楽しさを知り、鏡を眺めていると、「お母さんに似てきた」と思う。 たった一人の家族だった母を亡くしてから14年余り。困難に直面した時、さみしさで押しつぶされそうな時、母からの手紙を読み返し、その字を指でなぞってきた。 〈
16年と半年前、57歳になったばかりの2007年の9月に初めての投稿をしました。その2ヶ月くらい前から閲覧はしていた気がしますが閲覧履歴のようなものはないためわかりません。 ちょうどその頃、勤務していた会社で役員に昇格したばかりでした。法学部を卒業し新卒で入社して以来、ひたすら営業畑にいた私が役員になってから与えられたのは情報システム部を含むIT分野でした。 その10年前ごろから会社にパソコンが導入され始め、総務部門にいた同期が悪戦苦闘しており「大変そうだな〜」なんて気楽に思っておりましたが、まさか自分がそれらを統括する立場に置かれるとは思いませんでした。 IBMが主催する勉強会に参加したり、書籍を購入したり、パソコン教室にも通い、DELLのデスクトップPCを購入して大学生だった息子に助けられながら設定をしていました。 インターネットを徘徊する中で見つけたのがはてな匿名ダイアリーです。 結
古賀及子さんのエッセイ連載、今回はおためし版で無料でお読みいただけます! とにかくモテる人だった。 知り合ったのは当時全盛期だったミクシィの、コミュニティのオフ会でだ。昭和50年代の1月から3月に生まれた人たちだけが参加できる集まりで、参加者に誕生日を聞くとだれもかれもが早生まれなのが、そういうものだとわかっていても可笑しかった。私は1月生まれで、彼女は3月生まれだ。 なんだかもう本当にモテた。会う男性がみんな彼女を、驚くほど簡単に好きになる。 さらさらでまっすぐの栗色のロングヘア、茶色い瞳のよく動く丸い目、長いまつげが印象的だけれど濃い化粧はせず、服装は気取らずカジュアル、いつも笑顔で、ふるまいは一生懸命、恋人はおらず、地方から東京に出てきてひとり暮らしで仕事を頑張るようすにひかれる気持ちは理解できたが、それにしてもという釣れ具合だった。 彼女と私は同い年で、偶然自宅が近所だったこともあ
帯広市の自衛官大泉拓途さん(25)と会社員の沙綾さん(26)=旧姓・加藤=が23日、市内で結婚式を挙げた。2人の縁の始まりは25年近く前に載った十勝毎日新聞の人気コーナー「私の赤ちゃん」。同じ日の記事に並んで載った2人が、偶然の出会いを重ね、引き寄せられるように結婚した。披露宴で華燭(かしょく)に照らされた2人は「いまだに信じられない。記事があったからこそ生まれた縁だった」とほほ笑んだ。(北村里沙) 運命の糸が紡がれ始めたのは1999年2月22日。それぞれの家庭で新聞を開いた2人の母親、大泉雅美さん(49)と加藤文恵さん(51)は喜んだ。「私の赤ちゃん」に子どもの顔があった。「載るのを心待ちにしていた。すぐに切り取って成長アルバムに挟んだ」と応募した文恵さんは振り返る。 妹に同じ名前 一方、我が子の隣で笑う赤ちゃんに目を引かれたのが雅美さんだった。「沙綾。なんてかわいい名前なんだろう。もし
6歳のとき、友達のマホちゃんが誰も履いていないようなフリフリのスカートを履いていた。みんなは可愛いねと言ったけど私は変だと思ったから、変だねと言った。マホちゃんは怒って泣いた。 8歳のとき、父親が知らない女の人といるのを見た。私はそれを浮気だと思ったから、晩御飯のとき二人にそれを伝えたら、数カ月後、両親は離婚した。母親は一言私に、アンタのせいよとだけ言って、それ以来父親の話をしなくなった。 14歳のとき、マホちゃんが好きだと言っていた先輩に告白された。マホちゃんがあなたの事好きらしいので、と断った。それを伝えたら、マホちゃんは怒って泣いた。 16歳のとき、初めてのバイト先で品出しをしていたらパートの人からバックヤードに呼び出された。私の品出しの仕方が間違っていると話し始めた。私は慌てて商品のところに行って、直してから退勤した。それ以来パートの人から無視されるようになった。 18歳のとき、美
大阪在住のフリーライター。酒場めぐりと平日昼間の散歩が趣味。1,000円以内で楽しめることはだいたい大好きです。テクノラップバンド「チミドロ」のリーダーとしても活動しています。(動画インタビュー) 前の記事:買った袋麺をその場で作って食べていい「ラーメンコンビニ」スタイルの店が鶴橋にあった 「ブスの店 杏」はこんな店だった デイリーポータルZで過去に公開された記事に、尾張由晃さんの書いた「楽しいスナックブスの店」がある。 2012年公開の記事なのだが、尾張さんが同じくデイリーポータルZライターの小堀友樹さんと一緒にドキドキしながらこの店に入った時のことが詳しく書かれている。すごく楽しかった雰囲気が伝わってくる。 私が東京から大阪に引っ越してきたのはこの記事が公開されたもう少し後だったのだが、近所を歩いていたら、ひさしや看板に「ブスの店」と書いてある店があって驚いた。 お店の外観はこんな感じ
「たまに取り出せる褒め」 ふとした時に懐から取り出して、にんまりと心を温める、誰かに褒められた記憶のストック。 そんな記憶は他人のものでも、どういうわけか嬉しくなってしまうものなのである。 ※この特集はご応募いただいた「褒められたエピソード」を漫画にしたものです。 たまに取り出せる褒め ももさんの場合 【作者よりコメント】 私はかねてより子どもが嬉しがる時にぴょんぴょこ跳ねる姿が可愛いなと思っていたので、 そんなぴょんぴょこの中心にいられたということが、とてもうらやましく、そして自分のことのように嬉しく感じました。 言葉にして褒められるということはもちろん嬉しいですが、このように態度で示された褒めというのも、混じりっ気のない素敵さがあるもんだなと思い知りました。 自分の人生は自分が主人公であるということを、ともすると忘れてしまいがちですが、あまりに自分が主人公であった瞬間の思い出は、とても
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