最近は、大ヒットした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場する元競走馬に会ってみたいと牧場を訪ねる新たなファンも多いという。ただ、一部には、勝手に牧場の敷地に入り込んだり、馬に触ったり、食べ物を与えたりといった禁止行為をするファンもいて、たびたび問題になっている。
――実際に日本へやってきて、当時のJリーグと磐田を取り巻く状況をどう思いましたか? 「まだリーグ創設当時の熱狂が残っており、すべてが『フェスタ』(お祭り)。試合はまるでコンサートのような雰囲気で、選手もファンもあまり勝負にこだわっていないように感じた。 それまで私はブラジル、イタリア、ドイツというメディアもファンも勝負にとことんこだわる国でプレーしていたから、驚愕した。どういうことなのか全く理解できなかったが、日本の生活が長いオフト監督が日本人のメンタリティーを説明してくれた」 ――当時の磐田のチーム状況をどう思いましたか? 「ゴン(中山雅史)、ハットリ(服部年宏)、フジタ(藤田俊哉)、ナナミ(名波浩)ら優れた選手がおり、オク(奥大介)、フクニシ(福西祟史)ら将来性豊かな若手もいた。彼らがプロ意識を持って正しい努力を重ねたら、きっと強くなると思った。 ただ、試合の中でいつ攻めるべきなのか、
マラソンカンボジア代表としてオリンピックにも出場したお笑い芸人の猫ひろし。国籍変更で巻き起こったバッシングや五輪レースでの思い出、思い描く今後について聞いた。
「しっかりお金を稼がないと」 元サッカー日本代表のストライカーが2015年に立ち上げた沖縄SV(エス・ファウ)、そのクラブが手がけるコーヒー農園が沖縄県名護市にある。 大規模な国産コーヒーの栽培を目指して『沖縄コーヒープロジェクト』が立ち上がったのが3年前。琉球大学やネスレ日本と連携しながら、耕作放棄地や農業従事者の減少という問題を解決し、沖縄に新たな産業をつくり上げる。同時にクラブがより地域と密接に関わって生きていこうという取り組みでもある。 海からほど近い名護の高台に苗木を植えて3年が経ち、今年の冬にはようやく初めての本格的な収穫を迎えられる。潮風が吹きつけるこの場所は、世界でも例がない塩害の危険性をはらむコーヒー畑だという。あえて過酷な環境でのチャレンジではあったが、5月に東京で行った進捗状況の報告会見では収穫したコーヒーの試飲ができるまでになっている。
2021年5月、SKシュトゥルム・グラーツ対レッドブル・ザルツブルクの試合会場を訪れたオシム。体調は良かったり悪かったりだが、眼光の鋭さは健在だ イビチャ・オシムに電話をしたのは日本がシドニーでオーストラリアを破り、1998年以来7回連続のワールドカップ本大会出場を決めた数時間後だった。試合がオーストリアでも生中継されるのを筆者が知ったのは、当日(ヨーロッパ時間で3月24日午前)になってからだった。そのためオシムに伝えることができず、彼は日本が会心の戦いでオーストラリアを下した試合を見てはいない。それでもオシムは日本の突破を心から喜び、同時にロシアの侵攻が止まないウクライナの状況を憂えるのだった。 ■■■ ――元気ですか? 「ああ、元気だが君はどうだ?」 ――私もまあまあです。 「あなた方は勝ち点3を得たのだな」 ――ええ、とても満足しています。 「予選を突破できたのだから。ジャーナリスト
2022年初場所を終え、あるひとりの女性が、相撲部屋のおかみさんを“卒業”した。人気大関だった若嶋津の伴侶である、元実力派アイドル歌手の高田みづえ――日高みづえさんだ。 1977年、『硝子坂』でデビューし、『私はピアノ』『そんなヒロシに騙されて』で2度のレコード大賞金賞を受賞。85年に、当時大関だった同郷の若嶋津と24歳で結婚し、同時に並々ならぬ覚悟で芸能界をきっぱりと引退する。90年2月、千葉県船橋市に松ヶ根部屋(当時)を興した夫に寄り添い、華やかな芸能界と対極にあるかのような相撲界――男だけの修業の世界を裏から支える”おかみさん”となった。 2014年に、夫は一門総帥の“二所ノ関部屋”を継承。このたびの定年退職にあたり、32年の長きにわたり掲げて来た相撲部屋の看板を下ろした。夫と弟子たちを、小柄な体と底抜けの明るさで支えてきた“薩摩おごじょ”だ。「まだ、どうしても私の名前が目立ってしま
2021年、日本サッカー界最大のジャイアントキリングは、天皇杯2回戦で起きた“おこしやすの奇跡”だった。関西1部リーグ所属のおこしやす京都ACが、J1の強豪サンフレッチェ広島を5対1で破ったのだ。その舞台裏には、「まともにボールを蹴ったことがない」と語るサッカー未経験の分析官がいた。(全2回の1回目/後編へ) 学生時代、部活に所属していなかった“サッカー店長”こと龍岡歩は、サッカーを見ることに多くの時間を費やした。高校卒業後は、9年間の海外放浪を経てサッカーショップに就職。並行して書いていた戦術ブログが関係者の目に留まり、サッカー素人でありながらJ3の藤枝MYFCに分析官として加入することなる。その後、おこしやす京都ACに活躍の場を移した龍岡は、先述したジャイアントキリングの当事者となった。 「試合前に『この試合勝てるよ』って言ったら、チームのみんなに笑われました(笑)。監督ですら10回に
「日本の敗戦は見た」 それがフィリップ・トルシエの第一声だった。日本がサウジアラビアに0対1で敗れたカタールW杯アジア最終予選第3節の試合終了直後、私たちは電話で話し合っていた。緒戦のオマーン戦に続き、接戦をモノにできなかった日本代表をトルシエはどう評価したのか。率直な意見を聞いた。 ――試合をすべて見たのですか? 「放映するテレビ局を見つけるのが難しく、アラブの放送を見たから幾つかのシーンは見られなかった。 どうしてなのかわからないが、日本はコレクティブな面で敗れた。コレクティブなクオリティを欠いていた。内容も乏しかった。個の面でも技術的なミスが多く、選手の能力も見劣りがした。インテンシティも動きも質・量ともに不十分で、試合の重圧があったのかも知れないが、これまで日本が作りあげてきたDNAがこの試合では何も感じられなかった。 たしかに大迫はチャンスを2度作り出し、これだけ出来の悪い試合で
オシム電話インタビューの後編である。話題はEUROから日本へと移っていく。Jリーグについて、日本の進歩について、日本人がヨーロッパのクラブで監督をする可能性について……。話はどんどん深まっていくのだった。(全2回の2回目/#1から続く) 「それで君らのほうはどうなっているのか。Jリーグははじまったのか?」 ――続いています。川崎フロンターレがずっと首位を維持していますが。 「監督は誰なのか?」 ――日本人です。鬼木達といいます。 「いいチームを作りあげたのだな。どんなチームなんだ?」 ――ちょっとバルセロナに似ています。ボールを支配してパスを回し、コンビネーションで崩します。 「それならいいではないか。もともとスタジアムの雰囲気はいい。東京の近郊にあり、人々は心からサッカーを楽しんでいる。スタジアム自体も悪くない。すべてが揃っている。どんなプレーをするのか具体的にはわからないが、進歩してい
すでにリーグ戦2ゴールと存在感を発揮する鈴木武蔵。さらなるステップアップを求めて、ベルギーでの活躍を誓った 前編『大迫勇也との比較は「気にしなくなった」鈴木武蔵が明かす代表での課題、旧友・南野拓実の凄みとは?』へ(外部サイトでご覧の方は最下部の関連リンクからご覧ください) コロナ禍が少し落ち着いた夏、鈴木武蔵は海を渡る決断を下した。 ベルギー1部・ベールスホットからオファーが来たのは8月8日。J1第9節の清水エスパルス戦の後だった。肉離れによる離脱からの復帰戦となったこの試合でも出場4試合連続となる今季5ゴール目をマークするなど、好調を維持する中でそのオファーは舞い込んで来た。かねてから海外移籍を視野に入れていた鈴木は、すぐにクラブとの話し合いの席を設け、移籍を決めた。 「昨季コンサドーレに加入したときから、もし海外のチャンスがあったら行かせてほしいと伝えていたので、クラブはその約束を果た
オーストリアのクラブ、シュトルム・グラーツには今もオシム伝説が残る。グラーツの観客席の垂れ幕には今もオシムの顔と名前が……。 イビチャ・オシムと電話で話したのは先月のこと。ヨーロッパではコロナウィルスの影響が深刻化し、すでに各国が非常事態を宣言して日常生活に大きな制約を加えていた時期ではあったが、日本にはまだそこまでの危機意識がなかったころだった。それから時間がたち、日本の状況も大きく変化した。 オシムはこの新型コロナウイルスによる社会をどう捉えていたのか――タイムラグを経てもなお心に直接響いてくる彼の言葉に耳を傾けよう。 「今はこちらの方が日本よりも深刻だ」 ――元気ですか? 「ああ、君らはどうだ。いろいろ問題があって、あらゆる活動が停滞している」 ――その通りです。 「問題は本当に多い。こちらは移民も多く、人が移動するからなおさらだ。避けるための手段が多くあるわけではない。危機は徐々に
参入プレーオフの末にJ1残留を果たした湘南ベルマーレ。所属する選手には能力があるからこそ、2020年の逆襲に期待したい。 湘南が辛うじてJ1に残留した。 改めて言うまでもなく、今季の湘南は前監督のパワハラ行為が明るみに出た後、みるみる失速。それまで11位につけていた順位も急降下し、結局昇格プレーオフまでもつれ込む苦しい戦いを強いられることになった。 ちなみに発覚前後の成績を比べれば、曹監督が指揮を執った22試合は9勝2分11敗(勝ち点29・得失点-5)。指揮官交代後の12試合は1勝4分7敗(勝ち点7・得失点-18)だった。 今季最終成績は10勝6分18敗(勝ち点36・得失点-23)だから、勝ち点のほとんどを騒動前に稼ぎ、騒動後に得失点を著しく悪化させたことがわかる。 付け加えれば15位の鳥栖とは勝ち点は同じ。得失点差わずか「2」で明暗を分けることになった。勝負の世界に「もしも」はないが、「
3-3という、およそファイナルらしくないスリリングな点の取り合いになったのは、先制点をもぎ取ったチャレンジャーが、勇敢な姿勢を貫いたからに他ならない。 10月26日に行なわれたルヴァンカップ決勝は、J1を2連覇中で、カップ戦5度目のファイナルとなる川崎フロンターレと、初のファイナル進出となった北海道コンサドーレ札幌の顔合わせとなった。 「クラブの力の差はやる前から分かっていた」と野々村芳和社長も認めたように、経営規模や選手層、経験値など多くの面で、札幌が川崎の後塵を拝していたのは、間違いない。 強者から先制点を奪った挑戦者が、虎の子の1点を守り抜こうと、自陣に引きこもってしまうのは、よく見られる光景である。 しかし、札幌がその選択肢に手を伸ばすことはなかった。 「すごく攻撃的なゲームになったけど、ミシャ(札幌のミハイロ・ペトロヴィッチ監督)のサッカーが引き出してくれたところがかなりある。さ
来年、1月4日、5日に開催される新日本プロレスの東京ドーム大会での引退を表明している獣神サンダー・ライガー。 ジュニアヘビー級のレジェンドだけに、国内外の多くのレスラーから「引退前に(もう)一度闘いたい」という対戦希望の声が上がっているが、先の新日本プロレス『Road to レスリングどんたく2019』シリーズでも、またひとり、ライガーとの一騎打ちに名乗りをあげる男が現れた。鈴木軍のボス、鈴木みのるだ。 4.24新日本プロレス後楽園ホール大会、「獣神サンダー・ライガー デビュー30周年記念試合」で、ライガーと鈴木は、それぞれタイガーマスク&田口隆祐、金丸義信&エル・デスペラードとトリオを結成し、タッグマッチで対戦。 この試合前、マイクを持った鈴木は「おまえ、あのとき言ったよな。『2年ぐらい時間よこせ』って。いつまで待たせるんだよ。それともなにか、『体力が衰えて怖いから、もうあなたとはできま
2018年12月2日、現役引退セレモニーを終え、ギオンスタジアムを1周する川口能活の姿を見つめる楢崎正剛に声をかけた。あらためて、約4年前の取材のお礼を伝えると、少し照れたような、柔らかい笑顔でこう返された。 「最初で最後でしたもんね」 2015年2月、雑誌では史上初めて、川口と楢崎による対談が実現した。その模様は、Number874号の誌面に掲載したが、ページ数の都合上、掲載しきれなかった会話もたくさん残っていた。 だから、当時からずっと思っていた。 日本を代表する守護神と守護神の対話を、自分のパソコンの中だけに閉じ込めておくのは、あまりにももったいない――。 そこで、おふたりの許可を得て、当時の未公開部分を含む「川口能活・楢崎正剛対談」の完全版を公開することにしました。川口がスパイクを脱ぎ、グローブを外した今、多くのみなさんに、2人の「GKとしての矜持」が伝われば幸いです。 俺たちの関
「厚別の奇跡」 コンサドーレ札幌サポーターの間でそう呼ばれ、長く語り継がれているゲームがある。 '97年5月25日、札幌厚別公園競技場で行われたJFL7節、コンサドーレ札幌対川崎フロンターレ戦だ。いまから21年前。まだJリーグは1部制で、このときのJFLは現在のJ2に相当するカテゴリーになる。 両チームとも開幕6連勝、Jリーグ加入条件を満たした準会員同士、昇格候補の直接対決だった。 試合は88分、アウェイの川崎が3-1とリードを広げる。だが89分、札幌はFWバルデスのループシュートで1点差に。さらにアディショナルタイムのラストプレーで、バルデスのヘッドが決まり同点に追いつく。 するとVゴール方式の延長戦後半7分、バルデスがハットトリックとなる決勝弾。残り1分からの劇的勝利は、クラブ誕生2年目だったコンサドーレの、北海道内での知名度と人気を飛躍的に高める一戦となった。 2度目の大逆転劇のヒー
「あの選手、怪我さえなければ良かったのにね~」 よくこういう言葉を耳にする。サッカー選手と怪我は切っても切れない関係性にある。日々肉体を鍛え上げているプロのアスリート同士がお互いの生活、そしてチームの勝利、個人の想いなどを懸けて激しくぶつかり合うのだから、当然ながら無傷のままで過ごせるわけはない。 怪我はサッカー選手にとっていわば宿命であり、避けて通れない道でもあるのだ。だが、その宿命の重さ、課せられる苦難の回数は、選手によって大きく差がある。 コンサドーレ札幌のMF深井一希は、あまたいるJリーガーの中でも重すぎる苦難を何度も課せられた選手の1人だ。 彼はこれまでのサッカー人生において、実に3度の前十字靭帯断裂という大けがを負ってきているのである。 3度も致命傷を負い、それを乗り越えた男。 前十字靭帯断裂は、サッカー選手の怪我の中でもかなり重い部類に入る。 前十字靭帯とは膝関節の中で、大腿
街でリクルートスーツの大学生を見ると、ふと昔の自分を思い出し、エールを送りたくなる。 「頑張れよ。あきらめるな」 昨季からジェフユナイテッド千葉の背番号10を背負う町田也真人(まちだ・やまと)も、一般企業の就職活動を経験した1人だ。 時代はリーマンショックの影響で就職氷河期と言われた頃だ。2010年、専修大学3年生の12月。親から譲り受けたノートパソコンを開き、リクルートの「リクナビ」など、複数の就職活動サイトに登録したことをよく覚えている。 当時、専修大は関東大学2部リーグから1部昇格を決めたばかり。町田はチームの主軸として活躍していたが、プロから注目されるような存在ではなかった。年代別日本代表の経験もなければ、大学の地域選抜に名を連ねたこともない。 「本気でJリーガーになりたいと思っていたけれど、イメージはまったくできなかった」 本当にサッカーで生きていけるのか――。大学4年生を迎える
イタリアのゴールマウスに毅然と立つ守護神ブッフォンは、もう見られない。 ロシアW杯欧州予選プレーオフで、イタリア代表はスウェーデンに敗れ、予選敗退が決まった。4度の優勝を誇るアズーリが本大会出場を逃すのは1958年大会の予選以来、60年ぶりのことだ。 「俺たちは敗北した。こんな形で代表を去るなんて、本当に悲しい」 試合後、主将ブッフォンの目は真っ赤だった。 歴代最多出場記録を更新し続けてきた代表での175試合目を終えた彼は、ロシア行きを逃せばその時点で代表最後の試合になることを知っていた。涙と嗚咽を抑えきれなかった。 2017年11月13日。イタリア・サッカーの1つの時代が、終わった。 3日前、ストックホルムでのプレーオフ初戦に0-1で敗れたイタリアは、カルチョの殿堂サン・シーロでスウェーデンを迎え撃った。逆転突破には2点差以上での勝利が条件だった。 7万2千人がトリコロールで埋めたスタジ
7連敗でブンデスリーガ最下位に低迷中のハノーファーは、2月21日14位のアウクスブルクをホームに迎えた。14分にあっさり失点を許してしまっても、苦境を跳ね返すという強気を見せることなく、前半を0-1で終えた。 「失点シーンも酷かったし、とにかく前半はネガティブな状態だった。ボールを出そうとしても受け手がいなくて、外へ出すしかないというような感じで、雰囲気の悪いチームの典型みたいな状態だった」と先発出場した酒井宏樹が振り返った。 今季21試合が終了した時点で、ハノーファーの勝ち点はわずかに14点しかない。1月に監督が交代し、元ポルトガル代表の長身ストライカー、ウーゴ・アルメイダを獲得したが、チーム状態は改善しないままだ。この試合でベンチ入りした清武弘嗣は、11月に右足を骨折し手術を余儀なくされ離脱していた。清武の復帰は、暗中模索を続けるハノーファーにとっての光明だったに違いない。 ハーフタイ
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く