2012年8月10日のブックマーク (3件)

  • 恐山あれこれ日記: 「堕ちるぞ!」のお話

    「堕ちるぞ!」のお話 善いことをすれば良いところ(天国、極楽など)に行けて、悪いことをすると酷い苦しみだらけの世界(地獄など)に行くという話は、古今東西の宗教や信仰に普通に見られるもので、それによって「倫理」や「道徳」を教えるのだ、というようなことが時々語られますが、それは誤解です。この話は、ただそれだけで終わるなら、宗教の話でも倫理の話でもありません。 善行の結果天国に行け、悪行のせいで地獄行きという話は、要するに正体が脅迫と利益誘導であって、アイデアの基は損得の問題、世間の取り引きです。なぜなら、この話は何が善行であり、何が悪行なのか一切示していないのですから。 宗教や倫理の話にしたいなら、まず第一に、人間という存在の仕方をどう認識するのかを問わなければなりません。その認識から、次に、何をなすべきこととし、何をなすべきでないこととするのかを明らかにするわけです。そして同時に、得られた

    wakabaroom
    wakabaroom 2012/08/10
    “善行の結果天国に行け、悪行のせいで地獄行きという話は、要するに正体が脅迫と利益誘導であって、アイデアの基本は損得の問題、世間の取り引きです。”
  • 直接知覚とは間接知覚である(あるいはその逆) - 現在思想のために

    前回まで、リードによるギブソン理論の解説を参照しながら、画像知覚の問題を検討してきた。今回は締めくくりとして同じ資料の第16章に着目しよう。その検討を通じてかなり決定的な知見を導くことができるように思える。 ギブソン-リードの見地からみると、環境要素の知覚(ふつうの意味での知覚)と記号系の知覚(例えば、画像知覚や言語知覚など)との相違は、これを知覚の構造とその機制とかかわせて捉え返すとき、「直接知覚」と「間接知覚」の相違にそのまま重なり合う。(リード『伝記ジェームズ・ギブソン』(佐々木正人監訳)、勁草書房、2006、p.411.) ギブソンは、環境についての意識が、表象や感覚作用から外的対象を推論する過程に基づく必要はないことを主張した。環境を特定する情報がリアルなものとして存在し、この情報を検知することが、すなわち〈知覚〉の働きであるのなら、検知のための行為=知覚はそれ自体が特定されるも

    直接知覚とは間接知覚である(あるいはその逆) - 現在思想のために
    wakabaroom
    wakabaroom 2012/08/10
    “リードはまた別の論点を提示している。アフォーダンスの意味は、それを特定する情報が利用できるときに直接知覚できる。だがそれを間接知覚することもできる。”
  • 「不変項」の相対性  ――グッドマンのギブソン批判から - 現在思想のために

    生態学的心理学の創始者ギブソン(J.J.Gibson)を知る人がしだいに増えつつあるようだ。現象学への関心から哲学研究に着手した経歴を持つ者の目から見て、ギブソン心理学と現象学的知覚論および運動論の親和性は一見して明らかである。 そればかりではない。哲学史への縦断的アプローチからもたらさえるひとつの帰結も、ギブソン研究の重要性を示唆している。すなわち(ごく大まかな見取り図に過ぎないが)古代から近代に至る形而上学の鍵概念が<形相>ないし<イデア>といったいわば客観的存在者にあったのに対して、「偉大な世紀」にその内在化という出来事が生じ、ここに主観的な<観念>なる存在者が誕生した。 ところが、20世紀を通じて哲学における実質的言説から形式的言説への転換が徹底化され、ある種の言語中心主義が哲学の常識となった(言語哲学の成立はその果実である)。このことの悪しき面についてはいま措くとして、いっそう重

    wakabaroom
    wakabaroom 2012/08/10
    “なぜなら、ひとが現に具えるような身体性と環境との相互性から現出する「不変項」は、それもまた、ひとつの構成された記号系に他ならないからである。このことをギブソン派は理解しない。”