万治二年(1659年)9月1日、火災により焼失していた江戸城天守閣の再建工事が中止になりました。 主導したのは保科正之。 上杉家の改易に「待った!」をかけてくれた人です。 まずはこの方の経歴をざっくり見ておきましょう。 ※以下は「保科正之」関連記事となります
岡山といえば、桃太郎。 これはもう、日本全国誰もが思いつく、岡山のイメージだろう。 金太郎や浦島太郎といった他の昔話に比べると、ご当地感がずば抜けて高い。 岡山の人はメルカリで「桃太郎グッズ」を買いがちだという。 どういうこと? 桃太郎グッズは買ったことない ところで、東京からずーっとバイクで巡っているのだが、四国あたりからどうもバイクの調子が悪い。チェーンがカラカラと異音を出す上に、ギアチェンジの時に変なショックを受けるときがある。 これはおそらく、チェーンが弛んでいるのだが、適切な工具がないので、自分では如何ともし難く、バイク屋さんにもっていって、チェーンの調整をしてもらわなければならない。 ということで、岡山のバイク屋さんにかたっぱしから電話をかけて、最初に修理をしてくれるとなったところに行こうと思い定め、電話したところ、最初に電話したバイク屋さんが、いきなり調整してくれるということ
上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧(じょうこてんのうのざいいねんとせいれきたいしょうひょうのいちらん)は、初代神武天皇から第25代武烈天皇までの天皇(摂政の神功皇后を含む)の在位年および空位年と西暦ならびに皇紀、干支との対照表を列挙したものである。神武天皇については誕生からの各年のほか、祖先の神々の一覧を付した。この時代には元号は使用されていない。 いずれの年代も『日本書紀』の記述を基に編纂された長暦である『日本長暦』に基づくものであり、考古学的知見に基づくものではないが、神武天皇の后の父は纒向遺跡付近の大神神社の祭神とも伝わる。第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までは欠史八代と呼ばれ、神武天皇と共に実在性が低いとされるが、纒向遺跡付近の志貴御縣坐神社を本拠とした磯城県主と、これを女系で継承した穂積氏・物部氏の遠祖が8代の皇后を出したとも伝わるが、異伝もある。第10代崇神天皇、第11代垂仁天
第7代孝霊天皇と、妃の倭国香媛(やまとのくにかひめ、絙某姉(はえいろね)、意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おほやまとくにあれひめのみこと))との間に生まれた皇子である。 同母兄弟姉妹として、『日本書紀』によると倭迹迹日百襲媛命(夜麻登登母母曽毘売(やまととももそびめ))、倭迹迹稚屋姫命(倭飛羽矢若屋比売(やまととびはやわかやひめ))があり、『古事記』では2人に加えて日子刺肩別命の名を記載する。異母兄弟のうちでは、同じく吉備氏関係の稚武彦命(若日子建吉備津日子命)が知られる。 子に関して、『日本書紀』『古事記』には記載はない。 記録[編集] 『日本書紀』崇神天皇10年9月9日条では、吉備津彦を西道に派遣するとあり、同書では北陸に派遣される大彦命、東海に派遣される武渟川別、丹波に派遣される丹波道主命とともに「四道将軍」と総称されている[1]。 同書崇神天皇9月27日条によると、派遣に際して武埴安彦命
『皇国二十四功 吉備大臣』月岡芳年作 吉備 真備(きび の まきび)は、奈良時代の公卿・学者。氏姓は下道(しもつみち)朝臣のち吉備朝臣。右衛士少尉・下道圀勝の子。官位は正二位・右大臣。勲位は勲二等。 出自[編集] 下道氏(下道朝臣)は下道国造氏で、孝霊天皇の皇子である稚武彦命の子孫とされる皇別氏族[3]。下道国とは備中国下道郡付近の、下道・川上・浅口などの諸郡と想定される[4]。姓は臣であったが、天武天皇13年(684年)八色の姓の制定を通じて朝臣に改姓した。 経歴[編集] 遣唐留学生として入唐[編集] 持統天皇9年(695年)備中国下道郡也多郷(八田村)土師谷天原(現在の岡山県倉敷市真備町箭田)に生まれる[5]。 元正朝の霊亀2年(716年)第9次遣唐使の留学生となり、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂・玄昉らと共に入唐する。唐にて学ぶこと18年に及び、この間に経書と史書のほか、天文学・
吉備津神社(きびつじんじゃ)は、岡山県岡山市北区吉備津にある神社。式内社(名神大社)、備中国一宮。旧・社格は官幣中社で、2023年(令和5年)現在は神社本庁の別表神社。 「吉備津彦神社(きびつひこじんじゃ)」とも称したが、2023年(令和5年)現在は「吉備津神社」が正式名である[1]。 概要[編集] 岡山市西部、備前国と備中国の境の吉備中山(標高175メートル)の北西麓に北面して鎮座する。吉備中山は古来神体山とされ、北東麓には備前国一宮・吉備津彦神社が鎮座する。当社と吉備津彦神社とも、主祭神に、当地を治めたとされる大吉備津彦命を祀り、命の一族を配祀する。 本来は吉備国の総鎮守であったが、吉備国の三国への分割により備中国の一宮とされ、分霊が備前国・備後国の一宮(備前:吉備津彦神社、備後:吉備津神社)となったとされる。この事から備中の吉備津神社は「吉備総鎮守」「三備一宮」を名乗る[2][3]。
鬼ノ城遠望(水城状遺構より) 西門(城外より) 水城状遺構を望む(城内より) 鬼ノ城(きのじょう)は、岡山県総社市の鬼城山(きのじょうさん)に築かれた[1]、日本の古代山城(神籠石式山城)。城跡は国の史跡「鬼城山」(1986年(昭和61年)3月25日指定)の指定範囲に包含される[2]。 概要[編集] 大和朝廷は倭(日本)の防衛のために、対馬~畿内に至る要衝に様々な防御施設を築いている[3]。鬼ノ城は史書に記載が無く、築城年は不明であるが、発掘調査では7世紀後半に築かれたとされている[4]。 鬼ノ城は、吉備高原の南端に位置し、標高397メートルの鬼城山の山頂部に所在する。すり鉢を伏せた形の山容の7〜9合目の外周を、石塁・土塁による城壁が鉢巻状に2.8キロメートルに渡って巡る。城壁で囲まれた城内の面積は、約30ヘクタールである。城壁は土塁が主体で、城門4か所・角楼・水門6か所などで構成される[
温羅(うら/おんら)は、岡山県南部の吉備地方に伝わる古代の鬼[1]。 本項では温羅の解説とともに、温羅と吉備津彦命に関する「温羅伝説」についても解説する。 概要[編集] 温羅とは伝承上の鬼・人物で、古代吉備地方の統治者であったとされる。「鬼神」「吉備冠者(きびのかじゃ)」という異称があり[2]、伝承によると吉備には吉備津彦命(きびつひこのみこと)が派遣され退治されたという[1]。 伝承は遅くとも室町時代末期には現在の形で成立したものと見られ[3]、文書には数種類の縁起が伝えられている。また、この鬼退治伝説は桃太郎伝説の原型に当たるとの説もある。[1] 内容[編集] 伝承によると、吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたが、温羅はヤマト王権が派遣した武将から逃げおおせて倒せなかった[1]。このため崇神天皇(第10代)は孝霊天皇(第7代)の子で四道将軍の1人の五十狭芹彦命を派遣した[1]。 討伐に
岡山県岡山市に鎮座し、 大吉備津彦大神を主祭神とする 山陽道屈指の大社です。 吾国唯一の様式にして 日本建築の 傑作、 「吉備津造り」の勇壮な社殿。 釜の鳴る音で吉凶を占う 鳴釜の神事、また桃太郎の モデルとして親しまれています。 もっと見る
鬼ノ城は、古代の正規の歴史書には登場しないが、後世の文献である鬼ノ城縁起などにでてくる。それによると「異国の鬼神が吉備国にやって来た。彼は百済の王子で名を温羅(うら)という。彼はやがて備中国の新山(にいやま)に居城を構え、しばしば西国から都へ送る物資を奪ったり、婦女子を掠奪したので、人々は恐れおののいて「鬼ノ城」と呼び、都へ行ってその暴状を訴えた・・・」。これが、一般に温羅伝承と呼ばれる説話で、地名もこれに由来している。 鬼ノ城の構造と規模 鬼ノ城は、すり鉢を伏せたような形の山で、斜面は急峻だが頂部は平坦である。この山の八合目から九合目にかけて、城壁が2.8kmにわたって鉢巻状に巡っている。 城壁は、一段一列に並べ置いた列石の上に、土を少しづつ入れてつき固めた版築土塁で、平均幅約7m、推定高は約6mもある。要所には堅固な高い石垣を築いており、その威圧感は天然要害の地であることとあわせ、圧倒
自民党は「自助」って言葉をよく使うらしい。ちょっと調べたところ以下のようなものがあった。 自助・共助・公助、そして絆 日本の文化、伝統、歴史に裏付けられた英知の結集と「自助」「共助」「公助」の精神を総動員する 「自助」は、日本人が大切にしてきた価値観の一つ よく分からないのだが、要するに公的な支援を使いすぎるなくらいの意味で「自助」を使っているとのことだ。それなら「自助」じゃなくて「道徳」を活用したほうが効率が良いのではないのか……などと思ってしまうわけだ、とにかく自民党の「自助」はかなり評判が悪く、流石に最近はあまり使われなくなってきている。ただ今も「自助」は良いという流れは続いているようだ。 自助が良いなら良いでいいんだけれど、この『自助』が日本の歴史や伝統に基づく『自助』なのだとしたら、使い方を間違えている。一般的に日本の古き良き文化だとされているものは、だいたい明治から戦前、あと昭
ご年配の世代には「嘘八百」の代名詞にもなっている“大本営発表”という言葉。 同テーマを一冊にした関連書籍は数多く世に出まわっていますが、元新聞記者の目から見て「素晴らしい……」と嫉妬してしまうのが本書。 『大本営発表 改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争 (幻冬舎新書)』(→amazon)です。 著者の辻田真佐憲氏は慶應義塾大学出身の近現代史研究家として2011年にデビュー。 あの東日本大震災のあった年ですね。 福島の原発事故によって安全神話が崩壊し、それに伴ってこんな疑念が国民の間に湧き上がりました。 メディアは電力会社からの膨大な広告費を受け取って「原発は安全」というイメージ操作の片棒を担いできたのではないか。 ↓ それって大本営発表じゃないの? 実際、本書によると、2011年には「大本営発表に関する文献や記事が急増した」そうで。 国立国会図書館のウェブサイトでも 「戦後最多のヒット数が確認で
かつての日本の政権では、重要な官職を得るためには位階とそれなりの家柄が必要でした。 戦国時代の武将たちは、単に戦で武功をあげることのみならず、高い位階と官職を得ることに執心していたようです。 その一例としてよく知られているのが、徳川家康の源氏改姓問題です。 1566年、三河統一を成し遂げた家康は織田信長との同盟を背景に戦国大名への道を歩み出していました。その年の暮れに家康は従五位下・三河守への官位認定と、松平から徳川への改称を申請しました。 ところが、正親町天皇は「先例にないため公家には出来ない」とのことからこれを拒否。そこで、家康は浄土宗の僧侶を通じて関白の近衛前久から協力を仰ぐことにしました。 すると、当時近藤家に仕え、神祇官でもあった吉田兼右が万里小路家で旧記から源氏の新田氏系の得川(とくがわ)氏の流れで藤原の姓になったという先例をみつけだし、懐紙に写し取りました。 それを前久が清書
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