わざわざお寺に来られて神様の「存在」を熱弁なさる勇気と情熱に敬意を表して申し上げます。 私は、「存在する」か「存在しない」かを問題にしているのではありません。問題にしているのは、「存在していると言える」のか、「存在しているとは言えない」のか、ということです。 このとき、「存在していると言えない」ということと、「存在しないと言える」ということとは、まるで別のことです。なぜなら、何も「存在しない」なら、そもそも、それについて「言える」ことなど何も無いからです(「存在しないと言う」ことさえ不可能)。 おわかりいただけるでしょうか? 私は、「存在」問題は言い方の問題、語り口の問題だと考えているのです。当然、誰にも一切何も語られないことは端的に「存在」せず(正確には「存在する」という言表が不可能)、語る本人以外の誰も理解しない「存在」は「存在する」と言うべきではない、と考えているわけです。 私は、け