アニメ『ドラえもん』野比のび太役、『ヤッターマン』ドロンジョ役などで知られる声優の小原乃梨子さん(本名:戸部法子)が7月12日に死去した。88歳。所属事務所「81プロデュース」が報告した。 サイトでは「弊社所属俳優 小原 乃梨子 儀(本名 戸部 法子) 令和6年7月12日 病気療養中のところ薬石効なく、88歳にて永眠致しました」と伝え「尚、葬送の儀につきましては、ご遺族の意向により親族のみにて執り行われました。ここに生前中の御厚誼を深謝し、謹んでお知らせ申し上げます」とした。
「キャッツ」「ライオンキング」などで日本にミュージカルのロングラン公演を定着させた劇団四季創設者の一人で元代表の演出家、浅利慶太(あさり・けいた)さんが、13日午後5時33分、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で死去した。85歳だった。葬儀は親族で行い、9月にお別れの会を開く予定。 1933年東京生まれ。父鶴雄氏は築地小劇場の創立メンバーだった。慶応大学在学中の53年に日下武史らと劇団四季を結成。54年の第1回公演「アルデール又は聖女」(ジャン・アヌイ作)から、ほぼ全作品の演出を手掛けた。 61年に東京・日生劇場の制作営業担当重役に就任。経営者としての手腕を磨き、四季を「芝居だけで食べられる劇団」にした。 初期はフランス演劇が中心の…
宝塚歌劇花組元トップスターで女優の順みつき(じゅん・みつき、本名・光木千枝子=みつき・ちえこ)さんが17日午後7時15分、胃がんのため大阪府豊中市の病院で死去した。70歳だった。 関係者によると、順さんは昨年ごろから体調が悪く、東京から地元・兵庫の近くに移り、入院。食事もできない状況が続いていたという。 順さんは1968年に宝塚歌劇団に入団。雪組に配属後、星組に組替えされ、76年に「ベルサイユのばら3」で男装の麗人オスカルを演じた。 さらに77年に月組に移り、「風と共に去りぬ」初演時ではスカーレット・オハラ役が高く評価された。80年、4組目の配属となった花組でトップスターに就任。83年の退団後は舞台を中心に活躍した。 「風と―」で主人公レット・バトラーを演じ、順さんとコンビを組んだ5期先輩の元トップスター(月組・花組)の榛名由梨は「ミッキー(順さんの愛称)は4組全部回ったぐらい、各組から欲
端正な容姿と朗々としたセリフ術で、「王女メディア」「近松心中物語」など戦後日本演劇界の第一線で活躍し、海外でも高く評価された俳優の平幹二朗(ひら・みきじろう)さんが死去した。82歳。警視庁などによると、23日夕、東京都世田谷区内の自宅の浴室で倒れているのを家族が発見したという。 広島市出身。子供のころから歌舞伎などの舞台を見て育ち、高校時代は演劇部で活躍した。1953年に2度目の受験で俳優座養成所に合格。56年に俳優座座員となり、「貸間探し」で舞台デビューした。66年劇団四季の浅利慶太さん演出による「アンドロマック」に出演。2年後に俳優座を退団し、以降、浅利演出作品、蜷川幸雄演出作品などに次々と主演し、演劇界で確固たる地位を築いた。 整った顔立ちにスラリとした長身。深みのある声、明瞭かつ重厚なセリフ術を武器に、空間を瞬く間に支配するダイナミックで緻密な演技は、他の追随をゆるさない存在感を放
ラジオや舞台での共演など、公私ともに永六輔さんと親交が深かった毒蝮三太夫さん(80)は、「大きな昭和の火が消えたと感じるね」と話す。 ◇ 最後に顔を合わせたのは、2カ月ほど前。都内の病院に入院していた永さんを見舞った。「ずいぶん弱っててね。おれのこと、わかってくれたとは思うんだけどなあ」。病状が悪化する前、永さんは会うたびに、「これが最後になるかもな」「おれは病人なんだから」とふざけていたので、その冗談も口にできない姿を見て、覚悟はしていたという。 1970年代に、ラジオ番組で共演して出会った。互いに江戸っ子で、気が合った。「おれがげたを履いて、ベーゴマや剣玉をやる下町の悪ガキなら、永さんは靴にランドセル背負って学校に通う二枚目のエリート。山の手のにおいがするんだな。だって、歌詞にしても、本にしても品がいいでしょ」と振り返る。「自分にないものを持っているから、おれを気に入ってくれたんだと思
15日に虚血性心不全で亡くなった、声優で俳優の大塚周夫(ちかお)さん(享年85)の葬儀・告別式が23日、東京・青山葬儀所で営まれた。 大塚さんがねずみ男を演じた「ゲゲゲの鬼太郎」で鬼太郎を演じ、この日、弔辞を読んだ野沢雅子は、大塚さんが地下鉄の中で急逝していたことを明かした。当日、大塚さんはナレーションの仕事が終わった後、所属の青二プロダクションの新年会に出席。同席だった野沢と役者談議を交わした中で「俺、死ぬ時は知ってる人がいないところでパーッと死ぬんだ」と語ったという。大塚さんは終了後、帰宅するため地下鉄に乗った直後、車内で倒れたという。野沢は「何も実行することはないのに…どうして?」と涙した。
舞台やテレビドラマで幅広く活躍した俳優の斎藤晴彦さんが自宅近くで倒れ、搬送先の東京都内の病院で亡くなりました。 73歳でした。 斎藤晴彦さんは昭和15年生まれ、昭和40年代からのアングラ演劇ブームを支えた代表的な俳優として知られ、テレビや商業演劇の舞台でも活躍しました。 ミュージカル「レ・ミゼラブル」では、テナルディエの役で昭和62年の日本初演から長年出演したほか、森光子さんの代表作として知られる舞台「放浪記」では、森さんの演じる林芙美子が頼りにする知人、菊田一夫の役を平成17年から演じて、近年の当たり役としていました。 一方、クラシック音楽にも造形が深いことでも知られ、通信会社のテレビコマーシャルでは、クラシックの楽曲の替え歌を披露して話題となったほか、NHKでは、Eテレの音楽教養番組「クインテット」でも人生経験の豊かな音楽家の役で声優として出演し、人気を集めるなど、幅広いジャンルで活躍
横澤彪さん=2007年撮影 「オレたちひょうきん族」などのヒット番組を手がけ、お笑いブームを巻き起こしたフジテレビ元プロデューサーの横澤彪(よこざわ・たけし)さんが8日夜、肺炎のため東京都内の病院で死去した。73歳だった。通夜・葬儀の日程は未定。 1962年に東京大学文学部卒業後、フジテレビに入社した。80年代に「THE MANZAI」「オレたちひょうきん族」「笑っていいとも!」などのお笑い番組を手がけた。 80年に始めた「THE MANZAI」は、従来の演芸番組のスタイルを脱し、豪華なセットと若者向けの演出で爆発的な人気となり、漫才ブームに火を付けた。 81年からの「オレたちひょうきん族」はアドリブの面白さを前面に出し、けいこを重ねたコントが中心だったお笑い番組の流れを変えた。人気コーナー「ひょうきん懺悔(ざんげ)室」に自ら神父役で出演した。 手がけた番組で、タモリ、ビートたけ
43歳小泉氏、総裁選出馬は「自分で決める」 ポッドキャストで言及「仕事上の判断をいちいちおやじに仰ぎますか」
今日、僕は家で数年分の涙を流しました。 評論家であり舞台演出、脚本、作詞、作曲、演奏・・本当に多彩な女性。作家・栗本薫の名としても有名な中島梓先生がお亡くなりになりました。 僕が先生に初めてお会いしたのが中学1年生の時。 それ以来とても可愛がっていただき、先生が手掛けた舞台に6本出演させていただきました。 それから、人生で初めてライヴをやらせていただいたのも中島先生が企画してくれて、伴奏をしてくださいました。 いっつも「優ちゃん!」って優しく声をかけてくれて、時には母のように「コラコラ!」って怒ってくれて・・。 もう一人の育ての親です。 もう、昼間に泣き疲れて寝ちゃって、もう大丈夫だと思ってこのブログを書いてたら、また涙が出てきた(:_;) 最後に会ったのが『レミゼ』のアンジョルラスをお着物で観に来てくれて、終演後に「上手くなったね~。嬉しい。」ってニコニコしながら言ってくれた時。 もっと
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