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***と政治に関するwebmarksjpのブックマーク (5)

  • 誰か教えて - 内田樹の研究室

    ドキュメンタリー映画『靖国 YASUKUNI』の上映が予定されていた映画館五館が、嫌がらせや営業妨害を懸念して、上映を取りやめた。 同じような事件は年初にもあった。 日教組の教研集会会場に予定されていたグランドプリンスホテル新高輪が同じ理由で使用を断ったのである。 右翼の街宣車が集まって、顧客や周辺住民に迷惑がかかるからという理由だった。 そのとき、グランドプリンスホテル新高輪関係者に訊きたかったことがあるので、忘れないうちに書いておく。 グランドプリンスホテル新高輪は日教組をこの場合「顧客」には算入しなかったと解釈してよろしいのか、ということである。 予定していた集会が中止になることによって日教組が蒙る損害は「顧客の迷惑」にはカウントされない、と。 つまり、利用者のうち誰が「顧客」であり、誰が「顧客」でないかは、グランドプリンスホテル新高輪が利害得失を勘定して決定する。ということでよろし

  • アメリカと言う国 - 債券・株・為替 中年金融マン ぐっちーさんの金持ちまっしぐら 

    もはや触れるのはやめようと思ったのですがあまりにも誤解が多いのでアメリカと言う国について、再度申し上げておきます。 テキストはいつものようにかんべえ先生。 溜池通信 まず、この法案はこの先どうなるかわかりませんが、下院に提出される月何百の法案のひとつに過ぎないこと。過去の法案を見てください。毛皮の着用を慎むべしなんて法案も下院を通過してます。国会で扱うような問題ではない・・・・というようなものまで、およそ考えうるものはすべて法案として出されるといっても過言ではありません。 中には下院を日の衆議院だと思っている人も多いということに驚かされました。アメリカの下院は、その意味のとおり下です。上院は上です。上院の方がずーっとえらいんです。これだけは誤解しないようにしてくださいね。 上院議員と下院議員ではフェアドマとデニーズくらい違います。(Mシェフ、最近ご無沙汰しててすみません!) 二番目。 そ

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  • 赤の女王とお茶を - 「自由の国」を支える「奴隷」と「暴力」

    ウェブは資主義を超える(池田信夫) 自由の過剰な世界 やっぱこの世代の人はマルクス大好きなんですね〜。微笑ましいくらい。アンカテのessaさんも同世代でしょうか? 結論からいうと、「自由の国」は、それを支える「奴隷機構」と「暴力装置」を前提に成立します。 マルクスは自由の国を、労働が生活手段ではなく目的となるような世界とし、そこでは生産力は増大して無限の富が実現すると考えた。 まず、人間がデータ生命になってチップに半永久的に封入されるような場合を除き、炭素生物として生きる限り必ず「汚れ仕事」や「単調労働」といった「生活手段労働」が生じます。 当然、「自由人」はこんなことはやりたくない。 だとすれば、誰かに「やらせる」しかありません。 つまり、安定した「奴隷機構」が不可欠ということになります。もちろんこれが完全に機械化される可能性はゼロではないでしょう。が、それほど精巧なロボットを作るより

    赤の女王とお茶を - 「自由の国」を支える「奴隷」と「暴力」
  • 「選択の自由」が排除する人々 - 過ぎ去ろうとしない過去

    http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51011259.html ブクマにも書いたが、これを読んで「わたしは訴える(Ich klage an)」を思い出した。 1941年にドイツで『私は訴える(Ich klage an)』という映画が製作された。その物語は次のようなものだった。 トーマス・ハイトという名の物理学者が、友人の医師から、自分のハナが多発性硬化症におかさされていると知らされる。(…)自分が多発性硬化症という不治の病であることを知らされたハナは、トーマスにこう訴える。「私が最期の瞬間まで、あなたのハナでいられるよう助けてちょうだい。(…)そうするのよ、トーマス。私を当に愛しているなら、そうするのよ。」そしてトーマスはハナに致死薬を与え、ハナは安らかに死ぬ。 (…)トーマスは法廷で次のように訴える。「(…)私のほうこそ告訴します。私は

    「選択の自由」が排除する人々 - 過ぎ去ろうとしない過去
  • uumin3の日記:たとえば「天皇」は875年間も存在しなかった

    この国が長い歴史の中で時に応じて変容し、捉え直されてきたように、天皇や皇室、またそれを取り巻く状況も一様ではなかったと私は理解しています。不変の天皇制という「形」は無かったと見るのが当然でしょう。しかし今、立憲君主国という日のあり方を問題視する気もさらさらありませんし、敗戦後新憲法で規定された象徴天皇制という枠組みをこのまま存続できればよいのではないかと思ってもいます。 天皇という号が長きにわたって使われなかったのは事実です。Wikipediaの「諡」の項目が妙に詳しくてびっくりしました(お時間があればご一読を)。ここにあるように「天皇」という言葉自体一つの諡号であったわけで、存命の帝に「天皇」という称号を使うことはかつてありませんでしたし、諡(おくりな)としても平安中期の村上帝以降は長く用いられず、それが復活したのは江戸も後期の光格天皇の時なのです。 上皇に「光格天皇」とおくっただけな

    uumin3の日記:たとえば「天皇」は875年間も存在しなかった
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