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ブックマーク / kaikai00.hatenablog.com (22)

  • 教育格差と教育の公共性 - 今日行く審議会

    デイヴィッド・F・ラバリーは、「脱出不能‐公共財としての公教育」の中で次のように述べている。 教育における公益は、個々の消費者の私益の総体には還元できない。というのは、私益を追求する個人を全部集めても、誰も他人の子どもの教育を省みようとすることにはならないからである。学校システムが個々の消費者に私的財を提供するという圧力に晒されているなら、すなわち、よい仕事や社会的地位や快適な生活といった私的財の獲得競争において有利な立場に立つ機会を提供するといった圧力に晒されているなら、そのときは、教育の広範な公的便益が浸されることになろう。こうした消費者優先の学校システムは、教育経験を著しく階層化し、力のある消費者に対して、システムからの利益を勝ち取る機会を拡大することになるであろう。それは、教育システムを、勝者と敗者を作り出す選別・選抜メカニズムとしての性質の強いものにしていく。しかも、この場合、

    教育格差と教育の公共性 - 今日行く審議会
    westerndog
    westerndog 2006/08/24
    「教育に格差が生じることは、個人の利益を侵害するから問題なのではなく、教育の公益が侵害されるから問題なのだと考えるべき。」
  • 教育被害者ということ - 今日行く審議会

    よく、偏向した教育を受けた。ゆとり教育を受けた。私は被害者だ。とか、彼らは被害者だということがある。その背後にあるのは、「教育は間違わない」という確信のようなものや信仰なのではないか。この教育こそ最良で最上のもの。それ以外の教育はダメという考え方。そういうものも背景にある。教育被害者だと言っている人が教育被害者を再生産することだってある。でも、それには気が付かない。 教育がこの世に登場してこれまで間違いのない教育、最良で最上の教育なんて存在したことはない。教育は間違いもするし、失敗もする。だから、それを前提にした教育が必要になる。その教育は、この教育こそ最良で最上のもの。それ以外の教育はダメというものではないだろう。

    教育被害者ということ - 今日行く審議会
    westerndog
    westerndog 2006/08/17
    「教育は間違いもするし、失敗もする。だから、それを前提にした教育が必要になる。」 よくわかる。けど、失敗を放置したままにする教師を排除する仕組みを作らなけれ前進しないと思う。