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![料理コミュニティサイトCOOKPADで起こった問題の記録](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/2302e44c95c7e474fefb218540004f95dc47a4bb/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fimaging.jugem.jp%2Ftemplate%2Fimg%2Fjugem_og-image.png)
http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/comment?date=20051102#c のhallyさんのコメントに対する応答です。 私もhallyさんやjuul氏の立場をまだまだ理解・整理できていないと思います*1ので、お互いの立場を手探りしていくように議論につきあっていただければ幸いです^^ 1:立場について まず、「定義できる/できない」というのではなく「定義することの意味をどこまで、どのように重視するか」というのがhallyさんと私の差異ではないでしょうか。私は定義そのものが無用だ、とは思っているわけではありません。 2:境界設定の問題について そのような立場の違いが生じる理由は、hallyさんの言うように「境界領域」の問題にどのようなスタンスをとるのか、ということにかかってくるかと思います。この「境界領域」の問題を大きく A.範囲設定の問題:どこまでが、どの
コンピュータゲームは非コンピュータゲームと何か本質的に違うものかもしれない――ということは、たぶんゲームプレイヤの多くが漠然と感じてきたことだと思います。「ゲーム, プレイヤ, ワールド」は古典的ゲームモデルというものを提唱し、そこからの逸脱可能性こそコンピュータゲームならではのものである、ということを示してみせました。もちろんここまで明示的に述べていなくとも、既存のゲームモデルを突き破らんと考えてきた人々は、これまでにも大勢いました。その流れは少なくとも故リチャード・ゴールドスタイン氏の「リトルコンピュータピープル」までは遡ることができるでしょうが、日本のゲームデザイナがこうした変容に積極的に取り組みはじめたのは比較的最近で、めだった動きが顕れるのは1990年代半ばになってからでした。 これまでのところ、日本における脱ゲームモデル志向のゲームデザインはとりわけ「数値化可能な結末」を遠ざけ
ここまでに見てきたような動きは、いってみればモダニズムの第一波です。それは近代技術あるいは近代思想によって伝統的ゲームを再生産しようという潮流であり、本当の意味で伝統を塗り替えようとする試行ではありませんでした。古来人間はゲームに何かしら現実世界での意味付けをしようとするのが常で、だいたいにおいてそれは賭博か教育という形に落ちついていたわけですが、そういうゲームのあり方はこの時代に至っても変わっていなかった。あくまで実用性にゲームの意義を求め、それに適したデザインを優先する考え方は、むしろより強固になっていたとさえいえます。 しかしそんなのはゲーム本来の姿ではない――そう考える新しい世代のゲームデザイナたちが、やがて台頭してきます。変化はまずボードゲームの領域から起こりました。1880年代初頭、教育用ゲームの退屈ぶりにうんざりしたジョージ・パーカーというアメリカの少年は、ゲームは役立つもの
ビデオゲームをめぐる問いと思索 http://www.critiqueofgames.net/ Critiqueofgames >> データベース >> ゲーム関連書籍リスト 作成 井上明人 更新:2004年12月11日版 網羅的に掲載していますが、攻略本、ファンブックについては基本的にはのせていません(いくつか例外で載せています)。攻略本のリストについては、松原圭吾氏の作成しているZer0 Createが非常に参考になるかと思います。 入手困難な本が多数あります。Yahoo!Auctionや、国会図書館であれば、お目にかかることができるかもしれません。(かも、です。国会図書館に入ってない本も多数あります) 書評は、わずかですがこちらにあります。なお、こちらに追加していない書籍は随時未追加文献情報に掲載しております。 このリストは個人が作ったものであり、情報の間違いなどのおそれがあります。
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