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文学と評論に関するyajifunのブックマーク (3)

  • 石川淳傅説 | daily-sumus

    渡辺喜一郎『石川淳傅説』(右文書院、二〇一三年八月三〇日、装幀=臼井新太郎)読了。 「はじめに」に面白い話が披露されている。まだ流行作家となる前の石川淳が世話になった海老名雄二という人物がいる。著者は昭和四十年代末から度々海老名を訪問して石川のことを聞き出し、それを文章にして発表していた。 《その都度石川に送った。どうもその「伝記的研究」がいけなかったようだ。昭和六十一年二月に来た石川からの最後のハガキには「貴下の書くものが不快で氣に入りません」などと来訪などを断る文面であった。前年までの七通の"電文"のようなハガキはすべて好意的であったのに。》 渡辺は石川の逆鱗に触れた。それにしても昭和六十一年というと、石川は八十七歳である。まだ生々しい逆鱗が残っているというのも逆に不思議だし(ただし人が年齢を重ねると寛容になると考えるのは、考える方が間違っているのかもしれない)、それまでも研究者の作っ

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  • 私小説はいかにしてSFとなるか  - 左隣のインターフェース

    「田紳有楽」藤枝静男 田紳有楽・空気頭 (講談社文芸文庫) 作者: 藤枝静男,川西政明出版社/メーカー: 講談社発売日: 1990/06/05メディア: 文庫購入: 7人 クリック: 54回この商品を含むブログ (78件) を見る 稀代の私小説作家である藤枝静男の「田紳有楽」は、一部のSFファンからは、日有数のSF短編であるという評価がなされている。スラブ文学者の沼野充義は、『SFマガジン』の600号記念オールタイムベスト日短編部門第三位にこの作品を挙げており、また『しずおかSF 異次元への扉』(しずおかの文化新書、2012)には、岡和田晃が藤枝静男についての論考を寄せている。 一般的に私小説として見られる作品がなぜ、SFとして評価されるのか。「内宇宙」というものが、そこでのキーワードになるのだが、まずはこの小説と藤枝静男の世界がどのようなものであるのかを確認しておこう。 『田紳有楽』

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    yajifun
    yajifun 2012/11/27
    筒井康隆の「みだれ撃ち涜書ノート」をキッカケにこれを読んだ人間が多いという点は触れてほしかったなぁ。田紳有楽が読み継がれた最大の理由だと思う。
  • 「現代文学論争」補遺2 - jun-jun1965の日記

    『忠臣蔵とは何か』論争と丸谷才一 丸谷才一(一九二五− )は、三島由紀夫や梅原猛と同年である。東大英文科の大学院を出て、國學院大学の教授をしており、作家として独立したのは四十を過ぎてからのことだ。若いころ、篠田一士らと同人誌『秩序』をやっており、一九五二年からそこに長編『エホバの顔を避けて』(のち中公文庫)を連載したのが、デビュー作ということになるがこれが単行として刊行されたのは六〇年のことである。その間、もっぱら、グレアム・グリーンやジェローム・K・ジェローム、また英文科の後輩で、のち東大教授になる高松雄一(一九二九− )らとともに、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を翻訳したことで、次第に名を知られていった。六二年に「彼方へ」を『文藝』に載せて文藝誌にデビューし、六六年に書き下ろし長編『笹まくら』を刊行し、好評を得て、河出文化賞を受賞した。 丸谷は、日の私小説批判で知られる批評家

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