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<道路レポート>と【レポート大賞】に関するyamaigaのブックマーク (10)

  • 【山さ行がねが】道路レポート 切ヶ久保新道   

    今年11月始め、『廃線隧道のホームページ』を運営される“しろ氏”より、興味深い情報のご教示を頂いた。 「みやま書房」が昭和43年に発行した『三国街道』なるのなかに、群馬県北部の「切ヶ久保峠」というところに、明治7年に隧道が掘られたという記述があるというのだ。そして、現在はそこに車道らしいものはないという。 明らかに“明治廃隧道”を匂わせる情報。しかし、遠方のため自身では容易に調査できないということで、私にその貴重な情報を教えてくれたようだった。 自身にとっても初耳である切ヶ久保峠。そして隧道。 まずは国土地理院のサイトへ行き、地形図にその名を探した。 【マピオンで位置を確認】 最新の地形図にも、切ヶ久保峠の名前ははっきりと記されていた。 現在の地名で言うと群馬県利根郡みなかみ町の布施(ふせ)地区の南方で、この峠を挟んで吾郡高山村中山地区に接している。 図中の切ヶ久保峠は、峠の南側に道が

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    yamaiga 2010/05/29
    <道路レポ-97>2007年度 山行がレポート大賞第5位
  • 【山さ行がねが】道路レポート 国道135号旧道 トモロ岬

    一般国道135号は、伊豆半島の東岸を南北に縦貫する、観光及び物流の両面で代替路の無い極めて重要な路線である。 実際に通行してみると、確かに、ほぼ全線2車線しかない路幅の中を溢れんばかりに、様々な車が通っているのが分かる。 大型トラックから観光バス、オープンカーやバイク、自転車に至るまで、季節にもよるが、ありとあらゆる車を見ることが出来た。 そしてこの道は、伊豆半島という希代の観光地に全線の立地を置いたため、随所に有料バイパスとの分岐や合流がある。 その中には既に無料開放化されて久しい物も少なくないが、今でも、地方からの観光客やサンデードライバーの多くが、何気なく有料バイパスへ連れて行かれている。小田原から熱海の間はとくに、図らずも二度ばかり有料バイパスへ連れて行かれることになる。 今回紹介する旧道もまた、有料バイパスとの関わりの中で生きた道だった。そして、ある激甚な災害によって死んでいった

  • 【山さ行がねが】道路レポート 第三次 日原古道探索計画 江戸道編

    中世に秩父地方から進入し、この日原の地を拓いた原島家。 彼とその眷属の子孫が連綿と利用し続けた外界との連路、それが「日原みち」の始まりであった。 はじめ、外界側からこの道へ人が踏み込むことは稀であったが、やがて日原の奥地に一石山(日原鍾乳洞)なる信仰の地が現れ、近世には「日原みち」の改良が行われた。 右の図は、『日原風土記』や『新編武蔵風土記稿』などを元にして作成した、歴代の「日原みち」の概要である。 風土記における道の分類(第1期~5期)に、現道の直接の元となった道を6期として加えている。 このなかで、最も各代の道が輻輳しているのは「とぼう岩」の近辺であり、最も険しい河崖部分を大きく山上に迂回してきた第1期2期の道に対し、初めて谷中に道を開いたと考えられる第3期道は、その後の日原みちの方向性を決定づけたと言える。 この第三期道のとぼう岩開削については、風土記にはこう書かれてある。 第三期

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    yamaiga 2010/05/29
    <道路レポ-88>2007年度 山行がレポート大賞第1位
  • 【山さ行がねが】道路レポート 第二次 日原古道探索計画 

    あの日、私は勝者ではなかったのか? 「都内最狂廃道」などと喧伝されてきた都道204号日原鍾乳洞線の旧道を危なげなく踏破した私は、有頂天だった。 旧道の終点で「あの道」を見るまでは。 私は急遽計画を変更し、「あの道」へ行くため対岸の作業道に入った。 決定的に時間が足りなかった。 それでも私は荒れ果てた作業道をチャリで疾駆し、巨大な吊り橋の残骸が残る廃鉱山へ行った。 そのまま、「あの道」目指し、危険きわまりない斜面にも進み出た。 全てが命がけだった。 しかし、孤軍奮闘もそこまでだった… (写真右) 結局私は日原古道の核心部。「あの道」へ辿り着くことは出来ず、迫り来る夕暮れに追い立てられるように撤退した。 再訪ではなく、再攻略を誓って。 …以上が私と日原のファーストコンタクトの要約である。レポートはこちら。 撤退の翌日、私は近くの図書館へ行き日原や奥多摩町に関する郷土資料を読みあさった。 その成

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    yamaiga 2010/05/29
    <道路レポ-79>2007年度 山行がレポート大賞第2位
  • 【山さ行がねが】道路レポート 日原古道探索計画 

    新たなる目的地は定まった。 苦難の果てに辿り着いた都道204号日原鍾乳洞線の旧道最奥部から、千尋の谷を成す日原川の対岸に目撃された複数の道らしき痕跡。 旧都道突破の美酒に酔うはずだった私を一瞬で素面に戻してしまった、「伝説」を超える……道。 後日、図書館に行って「奥多摩町史」を調たところ、この道らしき影は確かに道であった。 氷川から日原へ向かう古来“日原みち”と呼ばれたそれの険しさは、町史としても特筆すべきところがあったらしく、かなり詳しい記載があったのだ。 それによれば、私がいままで辿った旧都道でさえ、日原みちとしては6代目の道であるらしい。 日原に人が住み始めたのは遅くとも室町時代に遡るそうで、以来、道中で最も険しいこの岩場…“とぼう岩”(日原の戸口という意味だそうだ)の“越え方”を中心にして、何度も道が変遷してきている。 断崖の中腹をほぼ水平に通る姿が、かなり鮮明に見えるそれは、大正

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    yamaiga 2010/05/29
    <道路レポ-78>2007年度 山行がレポート大賞第3位
  • 道路レポート

    大峠である。 日中に無数にある「大峠」の中でも、国道が通っていた物としては 歴史上最も 大きく 高い 峠であった大峠。 山行が永遠のライバル(自称だが…)『ORRの道路調査報告書』が遂に事業着手したことに刺激を受け、この大作に挑む時が私にも来たと、悟るなり。 まずは手始めに、山行が史上おそらく最も大きいフォント(300px)で、当に大きいんだぞという、有り様を示してみたつもりだが、如何だろう。 格的なレポを始める前に、今回はまず、諸元について大まかなまとめておきたい。 大峠は、17世紀初め頃、伊達政宗によって開削された道である。 当時記された「会津風土記」には、「路狭くて牛馬通せず難」とあり、米沢街道檜原峠越えに対する脇道でしかなかった。 そもそも、東北6県各県間にある山嶺の中でも、福島・山形の間に横たわる吾連峰や飯豊山地は最も高く、最低鞍部の檜原峠でさえ海抜1100mという高さだ

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    yamaiga 2010/05/29
    <道路レポ-52>2005年度 「山さ行がねが」 人気投票第3位
  • 道路レポート

    東北地方でただ一カ所だけの国道不通区間である甲子(かっし)峠。 福島県の中通り(なかどおり)地方と会津(あいづ)地方とを結ぶ、奥羽山脈越えの峠である。 現在、国道は会津側の下郷町からは甲子峠(海抜1300m)まで上れるものの、中通り側である西郷村からは海抜900mの甲子温泉で行き止まりとなっている。 この不通区間には、車道の代わりに登山道が整備されており、おおよそ4kmで通じている。 この登山道国道は、業界ではかなり有名であり、木の棒に真新しそうな国道標識が取り付けられ歩道の脇に設置されている景色を、あなたも何処かのサイトで見ているのではないだろうか? 山行がとしても、当然この登山道区間をチャリで乗り越す事を計画したが、決行日は生憎の雨でガスが酷く、結果的には挑む前に断念することになる。 しかし、私は読者の皆様に二つの約束をする。 ひとつ、私は今後必ずこの区間をチャリで踏破し、レポートをお

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    yamaiga 2010/05/29
    <道路レポ-49>2005年度 「山さ行がねが」 人気投票第5位
  • 道路レポート

    あなたは、この穴の姿を覚えているだろうか? 忘れもしない、2004年9月22日。 我々、山行が合調隊の3名が、悪天候を押し突入した粒様沢深部の林鉄探索。 延々と濁流を掻き分け、命まで押し流されそうになりつつの遡行。 遭難の恐怖に怯えながら、暗い森で火も起こせぬ野営。 翌9月23日、長い夜が明けると、空は嘘のように晴れ上がっていた。 まもなく我々は、遂にレールの敷かれたるままの軌道跡を発見。 そこは、まさに林鉄探索者垂涎の楽園であった。 さらに上流へと、錆びたレールは何キロも残っていたのだ。 誘われるように、レールを辿り歩く我々だったが、ある地点を境にして、それは途端に消えた。 静かなブナの森の底で、二つの清流が出会い、一つになっていた。 そこで我々は、右の沢を、選んだ。 かつて、狩猟に生きたマタギ衆すら尊んで近づかなかった、山の神の領域。 地形図上には、ただ「様ノ沢」とだけ記された、その峡

  • 道路レポート

    2004年5月中旬、山行が宛てに一通のメールが寄せられた。 そこには、私を即座に夢中にさせるネタがしたためられていた。 差出人は、青森県にお住まいのぴょんぴょん氏。 その彼が以前登山で利用した道が、戦前の車道の跡であるというのだ。 その道の場所は、右の地図の通りである。 地図の最も下に水色がかっている部分があるが、これは十和田湖である。 その十和田湖の北岸の突端である御鼻部山付近から北上し、海抜900m前後の山上を縦走。 いよいよ南八甲田山の峰峰に対峙し、これをヘアピンカーブで上り詰める。 最高所は、標高1200mを超える稜線上にあり、この名が、地獄峠。 ここから猿倉温泉へ向け、数度のヘアピンカーブを経つつ緩やかに下りるというコースである。 すなわち、北東北有数の観光地である「十和田湖」と「八甲田山」とを短絡する稜線ルートといえば分かりやすい。 このルートは、確かに一般の道路地図にも示され

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    yamaiga 2010/05/29
    <道路レポ-33>2004年度 「山さ行がねが」 人気投票第1位 山行が史上、最も難しい道。
  • 道路レポート

    ご覧の大カーブの先は、いよいよ県境の長大双子トンネルの片割れ「西栗子トンネル」である。 周りの風景は山岳そのもの、しかし道路上だけは都会のような喧騒に包まれている。 竣工した昭和41年ごろは、まだ環境保護の叫びは小さかったのだろうが、生態系を分断する巨大な帯である。 遂に目前に迫ったトンネル。 坑門に覆いかぶさる巨大な送風施設は、正にこの時代の長大トンネルのシンボルである。 はっきり言って、私などは胸がときめく。 幼少の頃、家族旅行で通った仙岩トンネルの威容が、私のトンネル好きの原点かもしれないのだ。 今日では技術の進歩により、地上にこのような巨大な施設を要さないので、こういった光景は今後再生産されないものだ。 道行く私たちを見下ろす坑門。 その姿は、なんとも誇らしげではないか。 実用上存在する物なのだが、何かそれ以上のコダワリを感じてしまう。 「俺がこの山をぶち抜いているんだ!!」 とい

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    yamaiga 2010/05/29
    <道路レポ-17>2003年度 「山さ行がねが」 人気投票第2位
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