畠山総州家の守護代から身を興し、河内大和を支配して畿内屈指の実力者に成長した木沢長政は、将軍・足利義晴擁立を目論み細川晴元に反逆しましたが畿内で孤立。1542(天文11)年3月、政敵・三好長慶に太平寺の戦いで敗れ、敢え無い最期を遂げました。 長政死後、同年12月には、細川晴元と細川京兆家当主を争って敗れた細川高国の養子で喜連城(現大阪市平野区)主だった細川氏綱(高国の従兄弟・細川尹賢の子)が旧高国派の勢力を糾合して挙兵。摂津、和泉、山城では細川氏の家臣団が晴元派と氏綱派に分かれ、再び細川京兆家当主の座を巡って争いが勃発するのです。 如願寺(境内は喜連城の主郭想定地) 一方、大和では木沢長政による支配がその死によって一瞬で瓦解し、長政と同盟を結んでじわじわと勢力を広げていた筒井順昭と、長政の侵攻に対抗して領土を広げていた十市遠忠が当時の大和国人衆の中では一歩抜きんでた状態となっていました。