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  • 戦国大和の覇者・筒井氏~大和武士の一族(1) - 大和徒然草子

    当ブログでは鎌倉時代から江戸時代までの大和武士たちの活躍や動向を、当時の畿内史と関連付けながら21回にわたって「大和武士の興亡」として奈良の戦国史を詳しく紹介しました。 今回は奈良の戦国史について切り口を変え、戦国の大和で活躍した大和武士の一族たちに焦点を当てて、ご紹介していきます。 最初にご紹介する大和武士の一族は、戦国末期に大和国の覇権を握って近世大名へと躍進することになる筒井氏です。 筒井氏の出自 筒井氏歴代 順覚(南北朝~室町初期) 成身院光宣と順弘、順永(河上五ヶ関を巡る抗争と応仁の乱) 順尊、順賢(筒井氏の没落と大和復帰) 順興(筒井氏の戦国大名化) 順昭(大和を武力統一した最初の覇者) 順慶(近世大名化した最後の官符衆徒棟梁) 定次(筒井宗家最後の当主) 正次、正信(徳川氏旗・筒井家) 筒井氏ゆかりの旧跡 筒井城 椿尾上城 郡山城 筒井順慶墓所 筒井氏関連年表 南北朝~戦国

    戦国大和の覇者・筒井氏~大和武士の一族(1) - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2024/06/11
    大和武士・筒井氏の南北朝から江戸時代にかけての事績を紹介する記事です。
  • 古墳に囲まれた中世山城・貝吹山城~越智谷散歩(2) - 大和徒然草子

    中世の大和国では、奈良の興福寺が事実上の守護として君臨し、在地の国人領主である武士は興福寺・春日大社の衆徒、国民として組織されてその傘下にありました。 しかし、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての戦乱で、国人たちは寺社領を蚕して勢力を蓄え、興福寺の制御から外れて独自の動きを取るようになります。 南北朝時代以降、大和で特に大きな力を持つようになった国人が、筒井氏、古市氏、箸尾氏、十市氏そして越智氏でした。 越智氏は大和源氏の一流を称して高市郡越智(現高取町)を拠に、吉野南朝の主力となって勢力を伸ばし、15世紀末の戦国時代初め頃までは大和における幕府(北朝)方主力として勃興した筒井氏をしばしば圧倒した国人です。 そんな越智氏の拠・越智谷に残る越智氏ゆかりの旧跡を、前回は越智氏の足跡とともにご紹介しました。 今回ご紹介するスポットは、越智氏の築いた中世山城、貝吹山城です。 15~16世紀に

    古墳に囲まれた中世山城・貝吹山城~越智谷散歩(2) - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2024/04/28
    奈良県高取町の中世山城・貝吹山城の紹介記事です。戦国時代に大和南部を本拠として勢力を扶植した越智氏の築いた山城です。
  • 南和の雄・越智氏の本拠・越智城界隈を巡る~越智谷散歩(1) - 大和徒然草子

    戦国時代の大和国(現奈良県域)では南北朝の争乱以来、激しく抗争する二つの国人がいました。 一つは添下郡筒井(現大和郡山市)を拠として、戦国後期に大和の覇権を握る筒井順昭・順慶父子を輩出した筒井氏。 そしてもう一つが、高市郡越智(現高取町)を拠とした越智氏です。 越智氏は大和南部を中心に勢力を伸ばし、南北朝時代には南朝方主力として活躍した他、応仁の乱では西軍・畠山義就軍の中核兵力として大和、河内、京都を転戦し、一時は筒井氏ら東軍勢力を大和から駆逐して北和にも勢力を広げました。 戦国後期には一族間の争いもあって衰退し、近世初頭に筒井順慶の策謀と家中の混乱により滅亡しましたが、越智氏は筒井氏と並んで大和を代表する武家であり、越智氏なしでは大和の中世史は語れない重要な一族です。 越智氏が拠とした越智は、西に曽我川、東は高取川にはさまれた、標高約200mほどの山塊からなる越智岡丘陵の中央を東西

    南和の雄・越智氏の本拠・越智城界隈を巡る~越智谷散歩(1) - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2024/04/20
    戦国大和の南和の雄・越智氏が本拠とした越智谷で越智氏ゆかりの旧跡を巡りながらその足跡を紹介します。
  • 筒井順慶反撃の最前線となった中世城館・窪之庄城~上街道散歩(11) - 大和徒然草子

    飛鳥時代の古代官道・上ツ道をルーツとし、現在の奈良市と桜井市を結んだ上街道は、中世以来、大和国内の主要な南北幹線であり、沿線には古代から近世までの長い歴史の中で生まれた名所・旧跡が多く残されています。 この上街道沿いの散策スポットを当ブログで紹介していますが、前回は奈良市南郊の帯解周辺エリアをご紹介しました。 今回は、上街道から分岐し、五ヶ谷街道を東へ1kmほど歩いた場所にある窪之庄城をご紹介します。 窪之庄城の場所はこちら。 国道169号線沿いの窪之庄集落北側にある城跡で、奈良県平野部の城跡には珍しく中世館城の土塁と堀が良好に現存する貴重な城郭遺構になります。 窪之庄城とは 窪之庄城跡 八坂神社(東殿) 北側台地 中央の大堀切 西殿 窪之庄環濠集落 参考文献 窪之庄城とは 下図は現在の窪之庄の航空写真に、城域や環濠、土塁・堀の位置を『日城郭大系』の縄張図をベースに記入したもの。 窪之庄

    筒井順慶反撃の最前線となった中世城館・窪之庄城~上街道散歩(11) - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2024/04/13
    奈良市南郊の窪之庄城は中世の領主居館を内郭とし環濠集落を外郭とする中世城郭。土塁と堀が良好に残る貴重な城郭遺構です。
  • 安産祈願の帯解地蔵と貴重な和算の算額・帯解界隈を歩く~上街道散歩(10) - 大和徒然草子

    飛鳥時代に設けられた奈良と桜井を結ぶ古代官道をルーツに持ち、中世から近世にかけて大和国の南北を結ぶ主要幹線だった上街道。 その周辺には、古代からの長い歴史の中で生まれた数多くの旧跡があります。 上街道沿いには旧跡が集まるスポットがいくつかありますが、JR帯解駅周辺もその一つで、前回は中世城郭の今市城を紹介しました。 今回は上街道と五ヶ谷街道の交差点付近を中心に、安産祈願のお地蔵様で有名な帯解寺、龍伝説とこちらも安産祈願のお地蔵様で信仰を集める龍象寺、そして江戸時代の貴重な算額が奉納されている円満寺を巡ります。 帯解周辺図(国土地理院HPより作成) JR帯解駅 上街道・五ヶ谷街道交差点 帯解寺 龍象寺 八坂神社・円満寺 参考文献 JR帯解駅 帯解の散策で玄関口となるのがJR帯解駅。 実は早くもこの駅自体が、帯解地域の見所の一つとなります。 帯解駅は1898(明治31)年、奈良鉄道(現在のJR

    安産祈願の帯解地蔵と貴重な和算の算額・帯解界隈を歩く~上街道散歩(10) - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2024/03/30
    奈良市の帯解地域は帯解寺、龍象寺と二つの子安地蔵尊が並立ちともに帯解地蔵と呼ばれる。また奈良では珍しい和算の算額を目にすることができるスポット。
  • 南都攻防の重要拠点・今市城を歩く~上街道散歩(9) - 大和徒然草子

    飛鳥時代に奈良盆地を南北に結ぶ官道として整備された道のうち、最も東に通され現在の奈良市と桜井市を結んだ上ツ道は、中世以降も上街道として大和の主要な南北幹線道として機能し、沿線には多くの宿場や市そして城郭が築かれたため、名所や旧跡が集まるエリアです。 当ブログでは上街道沿いの旧跡をこれまで8回ご紹介してきましたが、前回まで櫟以南の天理市内エリアを中心に散策してきました。 ※前回の記事はこちらです。 今回からは天理市から少し北に移動し、奈良市南郊のJR帯解駅周辺をしばらくご紹介していこうと考えています。 帯解周辺の散策スポットと言えば、安産祈願で有名な帯解寺が真っ先に挙げられるかと思いますが、中世大和を中心に紹介している当ブログとしては、帯解近辺で是非ともご紹介したいスポットが、中世城郭の今市城です。 今市城は、知名度は決して高いとは言えませんが、中世大和の南都・奈良をめぐる争いで常に勝敗の

    南都攻防の重要拠点・今市城を歩く~上街道散歩(9) - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2024/03/22
    奈良市の今市城は奈良県の戦国史では南都・奈良攻防の重要拠点として何度も史料に現れる重要な城郭で、遺構が残る中世平城としては県内でも最大級の規模を持ちます。
  • 美しい天空の城塞環濠集落・竹之内環濠を歩く~上街道散歩(8) - 大和徒然草子

    奈良県は中世以来の環濠集落が多く残っていることで有名ですが、その多くは平野部の低地に集落の四方を濠と土塁で囲んで形成されています。 しかし奈良県天理市にある萱生環濠集落と竹之内環濠集落は、山麓の高台に形成された県内でも珍しい環濠集落。 前回は、集落周辺の古墳を巧みに活用した萱生環濠集落をご紹介しました。 今回は萱生環濠から北に1kmほどの場所にある竹之内環濠を巡ります。 竹之内環濠の場所はこちら。 竹之内環濠は、標高100m、麓の国道169号線付近からの比高も30mという高地に立地する、奈良県内で最も高い場所にある環濠集落です。 竹之内環濠周辺図(国土地理院HPより作成) 濠の一部や環濠集落に特徴的な路地や土塁跡など、中世環濠集落の姿を残す町並みが残っており、戦国期には城郭としても機能した集落は、大和戦国史のターニングポイントとなる合戦の舞台ともなりました。 環濠散策をより楽しめる集落の歴

    美しい天空の城塞環濠集落・竹之内環濠を歩く~上街道散歩(8) - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2024/03/15
    奈良県天理市の竹之内環濠は県内で最も高地にある環濠集落で奈良盆地の眺望がすばらしい。戦国期は城郭としても機能し十市氏衰亡の発端となる合戦もあった。土塁や遠見遮断の路地など中世環濠の魅力も詰まった集落。
  • 古墳を巧みに活用した中世環濠集落・萱生環濠を歩く~上街道散歩(7) - 大和徒然草子

    ならまち(現奈良市)から天理市を経由して桜井市の初瀬街道の分岐に至る上街道沿いの地域は、古代から続く寺社や古墳、中世以来の宿場町や城跡など、歴史ロマンあふれるスポットが盛りだくさんのエリアです。 前回まで奈良県天理市にある上街道沿いの古社・大和神社と、その祭礼で御渡り神事が行われる境外社についてご紹介しました。 さて、大和神社のほど近くに、萱生環濠集落と竹之内環濠集落という二つの環濠集落があります。 両環濠集落の位置は、ともに笠置山地の西麓を上街道に沿うように桜井市から奈良市までをつなぐ上古の道・山の辺の道沿いで、下図のような位置関係。 萱生環濠・竹之内環濠周辺図(国土地理院HPより作成) 奈良県内には多くの環濠集落が残りますが、両環濠集落の大きな特徴はなんといってもその立地で、平野部に形成されるのが一般的な環濠集落の中で、この二つの環濠集落は奈良盆地を見下ろす高台にある非常に珍しい環濠集

    古墳を巧みに活用した中世環濠集落・萱生環濠を歩く~上街道散歩(7) - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2024/03/08
    奈良県天理市の萱生環濠は環濠集落では珍しい高地にあり周囲を古墳に囲まれた山の辺の道沿いにある集落。古墳を巧みに活用した集落の姿は環濠王国の奈良でも個性がかなり強い集落。
  • 美しき国宝本堂は中世建築の傑作・長弓寺~きたやまと散歩(3) - 大和徒然草子

    奈良県生駒市北部は、近鉄けいはんな線の延伸もあって交通アクセスが向上し、都会の利便性と自然豊かな田舎の生活が両立できる「トカイナカ」として、注目を浴びているエリアです。 前回まで中世の有力国人・鷹山氏の拠で現在は茶筅の一大産地である高山地区の旧跡を巡りました。 今回は高山地区の南に位置する上町地区の古刹・長弓寺(ちょうきゅうじ)を訪れました。 全国的に高い知名度を誇る寺社が多い奈良県にあっては、一般に広くその名が知られているとは言えない長弓寺ですが、国宝の堂は鎌倉期仏堂建築の代表例ともされる名建築で、落ち着いた境内の佇まいとともに知る人ぞ知る名刹です。 その歴史と現在の境内の様子をご紹介します。 長弓寺とは 境内 堂までの参道沿い 伊弉諾神社 堂周辺 堂 基情報 参考文献 長弓寺とは 長弓寺の場所はこちら。 富雄川沿いの大和郡山と河内交野を結ぶ古くからの街道沿いにあります。 以

    美しき国宝本堂は中世建築の傑作・長弓寺~きたやまと散歩(3) - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2024/03/01
    国宝の本堂が大変美しい寺院ですが昭和の初めに三重塔が失われた経緯や現在の境内の様子を紹介します。
  • 二つの宮座が併存する高山八幡宮・無足人座と高山茶筌の発祥を考える~きたやまと散歩(2) - 大和徒然草子

    奈良県生駒市北部は、都会の利便性と自然豊かな田舎暮らしを両立できる「トカイナカ」として近年注目のエリアですが、中世以来、大和、山城、河内三ヶ国の国境が交わる特殊性もあって奈良県下の他の平野部とは一線を画す、独特な歴史を育んできた地域です。 前回は中世に生駒市北部を根拠として、奈良県内だけでなく畿内の戦国史で大きな存在感を示した国人・鷹山氏と、同氏が築いた高山城を紹介しました。 高山城に続いて今回ご紹介する高山八幡宮は、室町時代に建てられた殿の他、近世から続く宮座行事に使用される建物が残り、様々な見所が詰まったお社です。 2つの宮座が併存する非常に珍しい神社で、宮座の一つ・無足人座の由来は高山茶筌発祥の伝承や謎と深く関わりを持ちますので、高山八幡宮の歴史や境内の様子と併せて紹介します。 注)高山では茶筅を「茶筌」と表記するため、高山の茶筅や茶筅師については「高山茶筌」「茶筌師」と当記事では

    二つの宮座が併存する高山八幡宮・無足人座と高山茶筌の発祥を考える~きたやまと散歩(2) - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2024/02/23
    奈良県生駒市高山町に鎮座する高山八幡宮の紹介記事。江戸時代までの異なる職能からなる二つの宮座が併存する珍しい神社。高山茶筅師の無足人座発足の歴史を追うと高山茶筌発祥の謎がうっすらと見えてきます☺️
  • 北和の有力国人・鷹山氏と奈良県最北の城・高山城~きたやまと散歩(1) - 大和徒然草子

    奈良県生駒市北部は、1980年代後半から学研都市として学術研究施設の建設や宅地開発が盛んな地域で、近年は近鉄けいはんな線の延伸で交通アクセスの利便性が大幅に上昇したことから、都会の高い利便性と自然豊かな田舎の暮らしを両立できる「トカイナカ」として注目されているエリアです。 1957(昭和32)年に生駒町(現生駒市)へ編入されるまでは北倭村だった地域で、江戸時代までは現在生駒市中心街のある生駒町地域が平群郡だったのに対して、富雄川沿いの生駒市北部は奈良市西部や大和郡山市と同じ添下郡に属し、同じ生駒市でも全く異なる歴史定背景や地域性を持っています。 この生駒市北部に、北和の有力国人・鷹山氏が築いた中世城郭・高山城があります。 鷹山氏は生駒市北部を中心に勢力を伸ばした国人領主で、河内、山城との国境地帯に領地を有した関係から、他の大和国人とは一線を画す活動を見せ、近年畿内の戦国史研究が盛んになる中

    北和の有力国人・鷹山氏と奈良県最北の城・高山城~きたやまと散歩(1) - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2024/02/17
    現在の生駒市北部を本拠とした中世国人・鷹山氏と奈良県最北の中世城郭・高山城の紹介記事です。鷹山氏は近年研究が進む畿内の戦国史においても重要な国人領主で活躍のスケール感は大和国人でも随一の大きさです。
  • ちゃんちゃん祭りの御旅所を巡る・大和神社(後編)~上街道散歩(6) - 大和徒然草子

    奈良県天理市新泉町に鎮座する大和神社(おおやまとじんじゃ)は、創建が記紀神話の時代まで遡る長い歴史を持つ古社です。 古代から国家祭祀を執り行う官社として朝廷から重んじられ、明治から戦前にかけては官幣大社に列するなど、国家との強い結びつきを持つ神社でした。 その一方、中世以降は大和郷の氏神として、現在でも地域の紐帯にとって中心的な存在です。 前回は大和神社境内の様子を中心に、その歴史や由緒、ゆかりについてご紹介しました。 今回は境内を離れ、毎年4月1日に執り行われる例祭、通称・ちゃんちゃん祭りで御渡りが行われる御旅所と、多彩な境外社を中心にご紹介します。 下図は今回ご紹介するスポットの周辺図で、上街道と山の辺の道という奈良県を代表する古道沿いのエリアになります。 大和神社周辺図(国土地理院HPより作成) 題と直接関係ありませんが、航空写真で見ると改めて山の辺の道沿いって古墳だらけなのが分か

    ちゃんちゃん祭りの御旅所を巡る・大和神社(後編)~上街道散歩(6) - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2024/02/08
    奈良県天理市の大和神社は多彩な境外社を持つ神社。ちゃんちゃん祭りの御旅所を中心にその歴史を調べると、祭りの起源を示唆するヒントがいくつも見えてきます。
  • 記紀神話から丹生川上神社、戦艦大和まで多くの「ゆかり」を持つ古社・大和神社(前編)~上街道散歩(5) - 大和徒然草子

    大和政権発祥の地とも考えられている奈良盆地南東部(現在の桜井市、天理市エリア)は、古代からの歴史を持つ神社や旧跡が、数多くあります。 奈良県天理市に鎮座する大和神社(おおやまとじんじゃ)も、同地域の石上神宮(現天理市)や大神神社(現桜井市)と同じく、創建以来長い歴史を持つ一社。 社殿は近代以降建て替えられたものが多いのですが、古代から近代まで長い歴史の中で積み重ねられた様々な由緒や所縁を持つスポットであふれる当社は、山の辺の道や上街道の散策でぜひお立ち寄りいただきたい神社です。 参拝された際により深くスポットを味わっていただける由緒や歴史を詳しくご紹介していきます。 伊勢神宮に次ぐ社領を有した大和神社 境内 一の鳥居 二の鳥居 殿 境内社 増御子神社 高龗神社(たかおおかみじんじゃ) 丹生川上神社との関係 朝日神社・事代神社・厳島神社 社務所(旧北之坊跡地) 祖霊社と戦艦大和記念塔 戦艦

    記紀神話から丹生川上神社、戦艦大和まで多くの「ゆかり」を持つ古社・大和神社(前編)~上街道散歩(5) - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2024/02/03
    奈良県天理市の古社・大和神社の紹介記事です。大和神社は記紀神話から近代の戦艦大和とのつながりなど長い歴史の中で多くの魅力あふれる所縁や由緒を持つ神社です。
  • 伝説と文化財にあふれる山の辺の道の古刹・長岳寺~上街道散歩(4) - 大和徒然草子

    当ブログでは天理市内を中心に、上街道沿いの町並みや旧跡をこれまでいくつか紹介してきました。 今回ご紹介する長岳寺は、上街道沿いというよりは「山の辺の道」沿いと言った方が適当かもしれませんね。 奈良県天理市は石上神宮や黒塚古墳、崇神天皇陵といった古代から続く神社や旧跡が数多く残る歴史ある地域ですが、県内の他の旧跡密集地帯とは違って、大規模寺院の空白地域になっています。 というのも、現在の天理市域は明治に起きた廃仏毀釈の動きが奈良県内でも激しかった地域の一つで、江戸時代まで残っていた古刹の多くが神宮寺だったこともあり、内山永久寺をはじめとした歴史ある寺院の殆どが廃寺となってしまったからです。 多くの古刹が姿を消していく中、長岳寺はその荒波を乗り越え、今では四季折々の花と紅葉の名所として、山の辺の道を散策する方々を中心に多くの参拝者が訪れる名刹となりました。 貴重な文化財や興味深い伝説に彩られた

    伝説と文化財にあふれる山の辺の道の古刹・長岳寺~上街道散歩(4) - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2024/01/26
    山の辺の道の古刹・長岳寺の紹介記事です。貴重な文化財の他、名刀や血天井の伝承など長い歴史の中で育まれた魅力がいっぱい詰まった寺院でした。
  • 行基、忍性 二人の菩薩が眠る寺・竹林寺~生駒谷散歩(2) - 大和徒然草子

    奈良県生駒市の近鉄生駒駅より南側、近鉄生駒線の沿線はかつて生駒谷十七郷と呼ばれた中世以来の郷村が集中するエリアで、新興住宅街が目立つ生駒市内にあって、古くからの街道と集落や旧跡が残っています。 前回記事では生駒谷十七郷の氏神として、生駒市壱分町に鎮座する往馬大社をご紹介しました。 往馬大社から600mほど南にある竹林寺は、奈良時代の僧・行基と鎌倉時代の律僧・忍性が葬られた地として知られます。 大衆の中に分け入り、困窮する人々を救済する社会事業を先駆的に進めた行基と忍性、二人の高僧が葬られた竹林寺の歴史は南都仏教の盛衰と共にありました。 その歴史と現在の様子をご紹介します。 竹林寺とは 竹林寺境内 参考文献 竹林寺とは 竹林寺は律宗寺院で、第二阪奈道路の壱分ICの南西、生駒山東麓の丘陵地にあります。 竹林寺周辺図(国土地理院HPより作成) 暗越奈良街道や清滝街道からも近く、古代から交通アクセ

    行基、忍性 二人の菩薩が眠る寺・竹林寺~生駒谷散歩(2) - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2024/01/19
    行基ゆかりの古刹、竹林寺の紹介記事です。
  • 往馬大社(往馬坐伊古麻都比古神社)を参詣する。近世以前の生駒の歴史・生駒谷散歩(1) - 大和徒然草子

    奈良県生駒市は1914(大正3)年の大阪電気軌道(現近鉄)・生駒駅が開業してから、最初は宝山寺参道沿いに県下最大の花街が発達、大阪近郊の歓楽地となりましたが戦争で花街が下火になると、戦後は大阪のベッドタウンとして発展を遂げた町です。 ※現在の生駒市中心街の発展史について詳しくは下記の記事をご参照ください。 古社寺を始めとした文化財や、奈良まちや今井町といった古くからの町並みが多く残る奈良県内にあって、生駒市は近代に発達した住宅街というイメージが強く、旧跡、史跡のイメージが湧かない方も多いんじゃないでしょうか。 しかし、生駒もやはり奈良県の町。 市中央部・生駒山麓の壱分町に鎮座する往馬坐伊古麻都比古神社(いこまにいますいこまつひこじんじゃ)こと往馬大社(通称・生駒神社)は、生駒山を神奈備(御神体)とした古式の信仰を守る日有数の古社なんです。 往馬大社は創建年は不詳ながら、延喜式神名帳(92

    往馬大社(往馬坐伊古麻都比古神社)を参詣する。近世以前の生駒の歴史・生駒谷散歩(1) - 大和徒然草子
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    yamatkohriyaman 2024/01/12
    近代に大阪のベッドタウンとして大きく発展した奈良県生駒市ですが町の土台となったの中世以来の郷村・生駒谷十七郷でその氏神・往馬大社がは創建から千年を超える古社です。現在の往馬大社とその歴史をご紹介します
  • 江戸時代の大和と大和国人の末裔たち~大和武士の興亡(21) - 大和徒然草子

    1585(天正13)年の筒井氏伊賀転封と豊臣秀長の大和入国により、大和では中世的な国人支配の残滓が一掃され、中央武家政権による一元的支配が行き渡る近世が格的に始まります。 1600(慶長5)年の関ヶ原の戦い、そして1614~1615(慶長19~20)年の大坂の陣と相次いだ戦国末期の大戦で、多くの大和国人が敗者の側に付いて姿を消し、勝者の側に付いた者も、その多くが郷土である大和に留まることはできませんでした。 戦国時代が終わり、大和国人の末裔たちはどうなっていったのでしょうか。 大坂の陣後の大和 大和へ入った他国衆 天領の支配 大和を離れた国人の子孫たち 茶道の家となった古市氏 造り酒屋で身を立てた島氏 参考文献 大坂の陣後の大和 大坂夏の陣後、戦国時代は終結し、元号も慶長から元和に改元されて格的な近世社会が開かれました。 下図は、大坂の陣終結直後の大和の情勢図になります。 豊臣氏滅亡直

    江戸時代の大和と大和国人の末裔たち~大和武士の興亡(21) - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/12/30
    江戸時代に大和国人の末裔たちがどのように生き抜いたか、また大和に新たに入った武士たちや天領の支配についての紹介記事です。意外な場所で意外な活躍をした大和国人の末裔も紹介します。
  • 江戸時代の大和と大和国人の末裔たち~大和武士の興亡(21) - 大和徒然草子

    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/12/30
    江戸時代に中世以来の大和国人の末裔たちがどうなったのか、近世大和に新たに領主となった武家はどうなったのかを紹介する記事です。意外な場所で意外な活躍をした国人の末裔も紹介しています。
  • 大和国人たちの運命を決した関ヶ原の戦いと大坂の陣~大和武士の興亡(20) - 大和徒然草子

    筒井氏が織豊政権のもと近世大名と化したことにより、興福寺を紐帯とする大和国人の連帯は急速に薄れていきました。 そして1585(天正13)年8月に筒井氏が伊賀転封となり、豊臣秀長が大和に入国して豊臣政権による大和直轄化が始まります。 筒井氏に従って多くの大和国人が大和を去り、残った国人も豊臣の直臣となりました。 1595(文禄4)年に秀長の養嗣子であった秀保が急死すると大和豊臣家は断絶しましたが、大和郡山には豊臣政権五奉行の一人、増田長盛(大和郡山20万石)が入って引き続き豊臣政権による直轄化の流れは止むことはありませんでした。 賤ヶ岳の七鎗の一人、平野長泰(田原5000石)や旧河内畠山氏家臣で秀吉配下となっていた神保相茂(池尻・現橿原市6000石)や秀長の元家老・桑山元晴(御所8000石)らが大和各地に入り、他国出身の領主が急増して大和の中世的な国人による支配は解体されていきます。 そ

    大和国人たちの運命を決した関ヶ原の戦いと大坂の陣~大和武士の興亡(20) - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/12/22
    筒井氏の伊賀転封で中世大和の国人支配は解体されたが戦国末期の関ヶ原の戦いと大坂の陣は、大和武士たちの生き残りをかけた戦いとなりました。両大戦での大和武士の活動とその後を紹介する記事です。
  • 大和武士の黄昏。豊臣政権下の大和国衆と筒井氏の伊賀転封~大和武士の興亡(19) - 大和徒然草子

    戦国時代末期、松永久秀と熾烈な抗争を続けた筒井順慶は、織田信長、羽柴秀吉と畿内に君臨する天下人に臣従。 筒井氏は天下人の武力と権威を背景として大和の支配を進めたことで、中世以来の興福寺衆徒から近世大名へと転身しました。 一方、中世に筒井氏と大和の覇を競った越智氏、十市氏、古市氏は筒井氏被官として家名の存続を維持するのが精いっぱいという状況に零落し、箸尾氏や宇陀の秋山氏も筒井氏傘下の与力大名とならざるを得ませんでした。 筒井氏に反抗的な国人たちは、服従するか、粛清されるかの二者択一を迫られ、1559(永禄2)年の松永久秀による大和侵攻以来、反筒井の代表的国人であった柳生宗厳は元関白で信長と親しい近衛前久に接近することで、領地を維持していました。 その一方、元々筒井氏の被官であった松倉重信(松倉右近)、中坊秀佑や筒井方国人であった島左近らは粛清された南方衆の闕所に新たに封じられ、有力者として台

    大和武士の黄昏。豊臣政権下の大和国衆と筒井氏の伊賀転封~大和武士の興亡(19) - 大和徒然草子
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/12/16
    順慶死後、筒井氏は伊賀へ転封、豊臣秀長が大和郡山を本拠とし大和は豊臣政権によって直轄化されます。興福寺を紐帯とした大和国人の連帯は消滅。豊臣政権下の大和武士たちの姿を紹介する記事です。