1559(永禄2)年8月、将軍・足利義輝をも凌駕する権勢を誇った三好長慶は、河内守護・畠山高政と安見宗房の対立による河内国内の内訌に介入。守護・高政方に付いて、安見宗房を大和へ駆逐しました。 さらに安見宗房追討を名目として、長慶は重臣・松永久秀を大和へ派遣し、宗房と同盟関係にあった筒井氏とその傘下国人たちへの侵攻を開始します。 その後、近江守護・六角氏と河内守護・畠山氏と対立するようになった三好氏は、南北から両氏の攻撃を受けて一時苦境に陥りますが、1562(永禄5)年の教興寺の戦いに大勝利して河内を支配下に収め、一時的に揺らいだ大和の支配も回復。 筒井党の主要国人であった井戸氏や、古くからの有力国人・十市氏が相次いで松永久秀に屈服し、少年大名の筒井順慶(当時・藤勝)は東山中の椿尾上城から国中(くんなか・現奈良県平野部)に戻れず、ゲリラ戦を展開するほかない状況でした。 窮地の筒井氏に1563