ブックマーク / negorosenki.hatenablog.com (12)

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑨ 法然の弟子たち・親鸞 教団によって脚色された?その人生 - 根来戦記の世界

    「鎌倉仏教のミカタ」という、中世史を専門とする郷和人氏と、宗教学者である島田裕克已氏が行った対談がある。これがなかなか面白く大変勉強になったので、その主張を一部紹介してみたい。 特に刺激的なのが、親鸞の経歴に関してである。先の記事で1204年に法然が比叡山から訴えを起こされたとき、弟子たちを激しく諫めた、と書いた。この時に法然が弟子たちに示したのが、「七か条制戒」である。 内容としては「他の仏や菩薩を誹謗するな、無知にも関わらず知識のある人たちに対して諍いを吹っ掛けるな、この戒めに背くものは門人ではない」などといった、門人たちに対して厳しく指導するものだ。内容から法然自身は穏健派であったのだが、フォロワーが過激化していたことが推測できて興味深い。 さてこの「七か条制戒」であるが、最後に弟子たちが署名している。全体で190名の弟子らの名が記されているが、まず筆頭弟子であった信空、続いて隆

    中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑨ 法然の弟子たち・親鸞 教団によって脚色された?その人生 - 根来戦記の世界
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2024/07/18
    本願寺は元は親鸞の菩提寺で親鸞の子孫が門主を務めた真宗教団内でもかなり特殊な寺院ですね。元は真宗諸派の中でもかなりの弱小教団だったのを蓮如一代で最大の真宗教団になった点でも異色です。。。
  • 根来寺・新義真言宗とは~その② 平安末期に流行した、2つの思想「浄土思想」と「末法思想」(下) - 根来戦記の世界

    平安後期に流行した「浄土思想」。これを象徴するのが「この世をば~」の歌で有名な、わが娘を3代に渡って天皇の后に送り込み、位栄華を極めた藤原道長の死に様である。 己の死が近いと感じた彼は、法成寺という寺を突貫工事で建てさせた。寺には三昧堂・阿弥陀堂(無量寿院)・五大堂などの伽藍が立ち並び、阿弥陀堂の尊にはもちろん阿弥陀如来を据えた。夕方になると、道長を先頭に大勢の僧侶たちが念仏を唱え始め、「浄土はかくこそ」と思われるほどであった、と伝えられている。これはつまり、浄土を地上に再現しているわけである。 道長は死に臨んで、東の五大堂から東橋を渡って中島、さらに西橋を渡り、西の阿弥陀堂に入った。そして、九体の阿弥陀如来の手から自分の手まで糸を引き、釈迦の涅槃と同様、北枕西向きに横たわり、僧侶たちの読経の中、自身も念仏を口ずさみ、西方浄土を願いながら往生したという。これが浄土思想的には、理想の死に方

    根来寺・新義真言宗とは~その② 平安末期に流行した、2つの思想「浄土思想」と「末法思想」(下) - 根来戦記の世界
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2024/04/18
    末法思想の流行は鎌倉新仏教の興隆に繋がる大きな思想潮流ですね。浄土思想はもとより戒律の緩みへの反発から叡尊ら戒律復興の動きも盛んになって鎌倉期は仏教のメインストリームの一つになったと思います。
  • 中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑤ 目指すところは「スーパーマン」 密教の教えとは - 根来戦記の世界

    密教はインドにおいて発生した、仏教の一派である。初期の密教は呪術的な要素が多く入っており、極めて土俗的な性格が強いものであった。こうした初期密教を「雑密」と呼ぶ。例えば、初期に成立した「孔雀王呪経」は毒蛇除けの護身呪であり、おまじないに近いものだった。 だがその後、インドでは後発のヒンズー教が急速に力をつけてくる。これに対抗する必要上、密教の理論化が進んだため、洗練された教義に生まれ変わった。これが中期密教である。 唐が西域まで進出したことにより、8世紀前半にインドから中国に入ってきたのが、この中期密教であった。伝えられたのは、主に「大日経」と「金剛頂経」の2つの経典であるが、この2つは中国においては、別のグループによって確立され、それぞれ胎蔵部・金剛界部と称された。この2系統の密教を統合したのが、空海の師であった青龍寺の恵果である。 場のインドや中国においては、この後、密教は廃れてしま

    中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑤ 目指すところは「スーパーマン」 密教の教えとは - 根来戦記の世界
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2024/02/09
    受動的な「神頼み」から能動的な「加持祈祷」というのは大変なパラダイムシフトだったんですね。なぜ平安時代から密教が神道を圧倒しやがて両部神道という形で取り込んでいったのかもわかる気がしました。
  • 非人について~その⑫ 京の声聞師たち・通夜参籠(つやさんろう)の術(上)秀頼は誰の子か? - 根来戦記の世界

    話が唐突にそれるのだが、秀頼は秀吉の実子ではない・・・というのは「現代医学的には」間違いのないところらしい。幾つかのデータを現代医学の知見から見てみよう。 服部英雄氏の著作「河原ノ者・非人・秀吉」によると、好色な秀吉が生涯に愛した女性の数は、100人以上いたらしい。己の出自が卑しい、という強烈なコンプレックスがあったため、その多くが高貴な身分の女性であった。 その数を厳密に数えることはできないが、中には経産婦も多数いたことが分かっている。代表的な女性に、秀吉の最もお気に入りの側室であった京極龍子がいる。この龍子、秀吉の元に嫁す前に3人の子を産んでいるのだ。 にもかかわらず、秀吉との間には子どもはできていない。というよりも、秀吉との間に子どもを成した女性は、淀君以外には1人もいないのだ。側室の中には、暇を貰って他に嫁ぐものもいた。その途端に妊娠、出産した女性は確認できるだけで、少なくとも3人

    非人について~その⑫ 京の声聞師たち・通夜参籠(つやさんろう)の術(上)秀頼は誰の子か? - 根来戦記の世界
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/09/25
    漫画「センゴク」でも茶々の懐妊は通夜参篭によるものとして描かれていましたし興味深い説ですね。中々大名家では例を聞かないのでそういった過程で生まれた子がどのように扱われたのかも興味深いところです。
  • 河原者と天部について~その③ 「肉食は穢れ」の禁忌(タブー)は、どこから来たのか - 根来戦記の世界

    イザナギ・イザナミの黄泉平坂(よもつひらさか)の神話からも分かるように、神道における「死の穢れ」を強く忌む風習は、古くからあったものだ。古代日においては「陵戸」という墓守を職とする人たちがいたが、律令制下においては彼らは賤民の一種とされていた。昔はこの「陵戸」こそが、中世につながる被差別民の原型である、という説が主流だったのだが、現在では概ね否定されているようだ。 神道にはこの「死の穢れ」とは別に、「肉をべること」への禁忌もあったから、延喜式においては「肉」も穢れと規定されている。しかし、これは比較的新しい考え方であった。 神道はとても古く、その起源はおそらく縄文時代の精霊信仰(アニミズム)にまで遡ることができる宗教である。古代人は当然のごとく肉していたわけで、奈良期の日では用のための牧畜もしており、豚を飼っていたという記録すらあるのだ。そんなわけで、神道もまた肉を是としてい

    河原者と天部について~その③ 「肉食は穢れ」の禁忌(タブー)は、どこから来たのか - 根来戦記の世界
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/06/04
    仏教と死穢との関連性興味深いですね。真言律宗の叡尊や忍性が様々な場所を殺生禁断の地にしたことも思い出し関連を興味深く考えさせられました。
  • 戦国時代の京都について~その⑬ 天文法華の乱・その後の京 - 根来戦記の世界

    この「天文法華の乱」を以てして「日における宗教戦争のひとつ」と論じる人いるが、どうだろうか。宗教戦争の定義にもよるが、確かにそういう面もあるだろう。開戦に至った契機は、教義上の争いである「松問答」なのだから。 だが教義上の違いが問題になったというよりも、叡山にとっては論争に負けて面子を潰された、という体面の問題の方が大きかったように思われる。この時代、体面を潰されて黙っていることは、己の権益を保証している社会的な地位が下がることに直結したから、叡山としては絶対に見過ごすことのできない大問題だったのである。 また京という強大な権益を生み出す都を、日蓮宗の手から取り戻したい、という思惑もあっただろう。経済的な動機も大きかったのではないだろうか。 その証左となるのが、乱の後の叡山の動きである。日蓮宗寺院は粘り強く、京への還住を目指し、各方面と交渉を続ける。そして先の乱より10年たった1547

    戦国時代の京都について~その⑬ 天文法華の乱・その後の京 - 根来戦記の世界
  • 戦国時代の京都について~その⑩ 天文法華の乱・宗教的な自治組織「衆会(しゅうえ)の衆」 - 根来戦記の世界

    洛中洛外における検断権、地子銭などの納税拒否、そして遂には京周辺の村落の代官請の要求など、未だかつてないほど高まった、町衆らによる京の自治権。だが注意しておきたいのは、日蓮宗(法華宗)を核としたこの「衆会の衆」を、地縁を元とした「京の町衆」とを同一視してよいのか、という問題である。 過去の記事で、共同体の例として、①「宗教」②「座」③「村落共同体」などがあると述べたが、こうした共同体は必ずしも単独の要素のみで存在するわけではない。複数の要素が錯綜して、入り組んだ関係となっているのが殆どである。 例えば商業都市である堺は、①は主に「日蓮宗」、②の商業的組織である「会合衆」と、③の村落共同体組織である「南荘」「北荘」、これら3つの要素が混ざって構成されていた。これらの共同体によって、どのようなバランスで自治が成されていたかは論争が続いているが、少なくとも戦国後期の堺においては、②の豪商らで構成

    戦国時代の京都について~その⑩ 天文法華の乱・宗教的な自治組織「衆会(しゅうえ)の衆」 - 根来戦記の世界
  • 戦国時代の京都について~その③ 「自力救済」から生まれた「環濠集落」 - 根来戦記の世界

    古代から中世にかけてのトレンドは、中央集権から地方分権へ、というものだ。絶対的な権力者がいない、ということは逆に言えば、力のある者が自分の好き勝手にできる、ということでもある。事実、中世は「自力救済」、つまり「自分の身は、自分で守る」というのが基ルールであった。 例えば「検非違使」は、平安期に京に置かれた治安維持のための組織だが、これは中世には既に存在しない、もしくは機能しなくなっている。代わりに京において軍事的な存在感を増したのが、「六波羅探題」である。ではこの六波羅探題が京の治安維持機能を担っていたかというと、そんなことはないのである。 彼らはあくまでも幕府から派遣された、「朝廷に対する監視機構」なのである。仮に六波羅探題の前で、私的な怨恨による殺人事件が起きたとしても、事件に介入なぞしてこない。彼らにとっては管轄の範囲外だからだ。もし言ってきたとしても、「他所でやれ、迷惑だ」くらい

    戦国時代の京都について~その③ 「自力救済」から生まれた「環濠集落」 - 根来戦記の世界
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/05/17
    リンクいただきありがとうございました!
  • 戦国時代の京都について~その⑨ 天文法華の乱・京の検断権を握った町衆たち - 根来戦記の世界

    1年余り続いた、一向一揆との苦しい戦い。しかし1533年6月、一向一揆との和議が成り、ようやく京に平和が訪れた。将軍・足利義晴と新管領・細川晴元は、更にそれから1年たった1534年6月になって、ようやく入洛を果たしている。将軍・義晴は南禅寺を仮御所として政務を見たようだが、晴元は京には住まず、近くにある摂津芥川城へ入ったようだ。 いまだ戦いをやめない、一部の願寺抗戦派と対峙する必要があったのも確かだ。だがそれよりも機を見るに敏な晴元は、在京することで生じるであろう法華宗徒たちとの政治的対決を避けた節がある。幕府による京の支配は、今までのようにはいかなかったのである。 一向一揆は実に手強かった。拠である山科願寺炎上後、畿内における一向一揆の最後の拠点・大坂御坊もすぐに陥落するかと思いきや、細川・法華一揆連合軍を見事に撃退、33年の2月10日には逆に堺を攻めて、これを陥落せしめている。

    戦国時代の京都について~その⑨ 天文法華の乱・京の検断権を握った町衆たち - 根来戦記の世界
  • 戦国時代の京都について~その⑧ 天文法華の乱・一向一揆との死闘 - 根来戦記の世界

    願寺・第10世宗主である証如はこの時17歳で、教団の実権はその祖父であり後見人でもあった、蓮淳が握っていた。細川晴元と組んで、一揆の蜂起を決定したのもこの蓮淳であったが、今や暴走する一揆をなんとか制御下に置こうと、悪戦苦闘する始末。しかし一向一揆の暴走は収まらない。 一方、新たに幕府を統べる立場となった晴元にしてみれば、そもそも自分が蒔いたタネがこうした事態を引き起こしたわけで、一刻も早く事態を収拾する必要があった。 細川晴元は一向一揆を見限り、その殲滅を目論むことにする。その動きを知った蓮淳は激怒、一揆を鎮める方向から180度方針転換する。8月2日、今やはっきりと敵に回った晴元の拠地である堺を、一向一揆勢に囲ませたのだ。晴元側の武将・木沢長政が緒戦ではうまく撃退したものの、一向一揆勢の優勢は明らかで、堺は風前の灯だった。 一方その頃、京で蜂起した法華一揆。彼らから見て東の山一つ越えた

    戦国時代の京都について~その⑧ 天文法華の乱・一向一揆との死闘 - 根来戦記の世界
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/05/12
    天文の錯乱、天文法華の乱で畿内の戦国の混迷はそのカオス度をますます深めましたね。三好元長の横死などその後の畿内政局に大きな影響を与えた事件だと思います。
  • 戦国時代の京都について~その⑦ 天正法華の乱・畿内を暴れまくった一向一揆 - 根来戦記の世界

    先の記事で触れた通り、京の自治権がピークに達したのは、1530年代である。この頃何があったかというと、畿内においては一向宗が暴れまわっていた。なぜ一向一揆が暴れまわっていたかというと、幕府の混迷のせいなのである。 応仁の乱以降、幕府は弱体化し、将軍位の座は不安定なものとなっていた。更に1507年に発生した「永正の錯乱」による、管領・細川政元の死により、細川家まで分裂してしまう。この辺りの経緯は実に複雑怪奇であって、詳しく記すときりがないので端折ってしまうが、1530年の時点では、まず将軍位は足利義晴のものとなっていた。義晴のバックには管領・細川高国、そして近江守護の六角定頼らがいた。 これに対抗して将軍の弟・義維(よしつな)を擁していたのが、高国のライバルであった細川晴元である。こちらのバックには、四国の阿波を拠とする三好元長(あの戦国大名・三好長慶の父である)らがいた。 両ラインの勢力

    戦国時代の京都について~その⑦ 天正法華の乱・畿内を暴れまくった一向一揆 - 根来戦記の世界
    yamatkohriyaman
    yamatkohriyaman 2023/05/08
    タイトルが天正法華の乱となっていますが天文法華の乱だったかと。このときの一向一揆はまさに畿内一帯に猛威を振るいましたね。大和では一向一揆に対抗するため不倶戴天の筒井と越智が手を結んだくらいなので。
  • 戦国時代の京都について~その⑤ 京の自治組織・町組 vs 三好の足軽 - 根来戦記の世界

    戦国期における京の、最も基的な共同体の単位は「町(ちょう)」である。これは「同じ街筋の人々」からなる組織なのだが、構成が独特なのだ。「街路を挟んだ向かい側」に住む人々と、結成した共同体なのである。 京は他の町と違って、方形に区切られた区画を持っていた。これは平安京の名残なのであるが、面白いのは「町」はこの「区画ごと」に整理された共同体ではないのである。あくまでも「通りに面した向かい側」ごとに、共同体が組織されていたのだ。生活動線である通りこそが重要で、それが共同体の軸になっていることがわかる。 戦国期の京の、町(ちょう)ごとのイメージ図。単色が、それぞれが属していた町を表す。上記の図では、12の色分けされた「町」があることを表している。原型となる平安京は、綺麗に方形に区切られた町割りだったため、町並みは基的に碁盤状の区画に整理されていた。それぞれが通りの向かい側との、町割りになっている

    戦国時代の京都について~その⑤ 京の自治組織・町組 vs 三好の足軽 - 根来戦記の世界
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