養老孟司先生が書評で取り上げてた月本洋『日本人の脳に主語はいらない』(講談社選書メチエ、2008年)を読む。 御影駅の待合室でぱらりと開いて、「私は人工知能の研究をしていたが、数年前に人間並みの知能を実現するには『身体』が必要であるという考えにいたった。」(4頁)という箇所を読んで、思わず「おおおお」とのけぞってしまった。 同じことを二年前の正月に気錬会の工藤くんから聞いたことを思い出した(彼もロボットの研究者である)。 そのときはそれが非常に重要なことであることはわかったのだが、どういうふうに武道の稽古につなげればいいのかよくわからなかった。 そのあと池谷裕二さんと対談したときにミラーニューロンの話を聞いて、学習というのが決定的に身体的な経験であることを教えていただいた。 それから島﨑徹さんと出会い、その指導を見て、身体図式のブレークスルーは知的なブレークスルーと同期するということについ
遅ればせながら、でもないが、ようやくポール・トーマス・アンダーソン(出来のいい方)の新作『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』を観てきた。 ストーリーに関してはあちこちで紹介されていると思うので手短に済ませるが、早い話が20世紀初頭のアメリカを舞台にした石油屋一代記。主人公のダニエル・プレインビュー(ダニエル・デイ・ルイス)は怪物じみたバイタリティで事業を拡大する一方、人間関係においてはどうしようもなく不器用で、周囲の人間を貶め傷つけてゆく。というか、プレインビューは「人をやり込めて、罵倒して、傷つける」以外のコミュニケーションの方法を知らないのである。ほかの語彙がないとも言う。だからプレインビューは常に孤独だ。が、「欲にまみれて金銭的に成功してはいるが、どうしようもない空しさを抱えている」などというのは見当違いで、なんでかというとプレインビューは常にそういう人生を送ってきたし、ほかの選択肢など
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