新奇にみえる精神分析と政治理論の交錯を試みる本書は、様々に興味深い。だが僕は、本書には無縁にみえる次の問いを立て、本書を政治的に詮索ゴシップしてみる。 ポピュリズムに善し悪しはあるのか、と。それは前―出来事的な浮遊する人頭ポピュレスの政治に関わるのか、とも。 この設問こそ、本書の隠された論点であり、バディウ、ランセラン、クーヴェラキスがヨーロッパ全体に及ぶギリシャ政治をめぐって鼎談した問題の核心(改良か、革命か)だった。 本書の構成をやんちゃに整理すれば、否認概念を軸とする第1部では、著者が言うラカニアン・レフトを臨界的外部から炙り出すために登場させられた同胞カストリアディスが検討され、師ラクラウの検討を経て、主要敵ジジェクをディスり、その戦略的な対比・・・・・・・・―離接のもとで・・・・・・第2部への結節環とされたバディウに、軽く秋波が送られる。 第2部では、著者にとっては不可欠な無意味
スタヴラカキスはラカンの精神分析学を政治理論に適用して、新たなラディカル・デモクラシーの戦略を提案しようとしている。ここでは魅力あふれる『ラカニアン・レフト』の全体を論じることはできないが、そこで紹介されているアラン・バディウの主張が、以前からの私の立場と重なるところが多いので、それを中心に検討してみたい。 バディウの〈出来事〉はわたくしの「問題解決」という概念に当たるように思われる。それは創造的な行為で、状況から何の必然性もなく、突発的・偶発的に介入するものであり、象徴界の不完全性(亀裂)の中に、その不完全性ゆえに介入し得る。 バディウは出来事が生起する状況を「出来事的な場」と呼び(p−185)、それが一つの実定的秩序(「所与の言説的接合体」p−184)として先在し、それが破断するところに「真理」が出現すると見なした。これは、精神分析では、主体の言説の中に出現する言い間違いや失策行為とし
Le philosophe Alain Badiou était l'invité de la matinale de France Inter ce vendredi pour présenter son livre La Vraie Vie, une réflexion, inspirée de la philosophie grecque, sur la jeunesse d'aujourd'hui. Il s'est exprimé sur les caractéristiques de cette jeunesse, déplorant une surexposition aux images. "Le combat contre les images est un combat platonicien", a-t-il affirmé à Ali Baddou. Au coeu
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く