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2009年7月6日のブックマーク (6件)

  • http://homepage3.nifty.com/oya2/physics/qed/qed.htm

  • 2008-09-27 - 蒲田アカデミア  蒲田で、いろいろ考える

  • 佐野碩 - Wikipedia

    佐野 碩(さの せき、1905年1月14日 - 1966年9月29日)は、日の演出家・作詞家・社会主義運動家。日では「インターナショナル」の訳詞の作詞者として知られる。後半生はメキシコを拠点とした演劇活動に費やし、メキシコでは「メキシコ演劇の父」と称される。 豊後杵築藩侍医を務めた佐野家の出身で、父の佐野彪太も医師であった。彪太の弟で日共産党指導者となった佐野学は叔父、同じく共産党指導者であった佐野博は従兄弟。また、母は後藤新平の養女で、後藤の長女の子である鶴見和子・鶴見俊輔姉弟とは従兄弟となる。 父の仕事の関係で、中国・天津の日租界に出生。幼少時代に関節炎を患ったため右足が曲がらなくなり、終生杖が必要な体となった。日に帰国し、暁星小学校から暁星中学校に進むが、2年生時に旧制開成中学校に転校。その後旧制浦和高等学校から東京帝国大学法学部に進学。浦和高等学校時代に演劇活動を始め、校

  • 篠原ともえ 30 歳がやたら艶っぽい - テレビの土踏まず

    この目線 篠原ともえがゲスト出演した 28 日放送のフジ系「新堂兄弟」を鑑賞した。 あらためて篠原ともえのプロフィールを確認すると「 1979 年 3 月 29 日生まれ」とあるから今年の誕生日をもって篠原ともえは 30 歳を迎えましたということになる。あのシノラーも三十路か…。そりゃこれ書いてるぼくもいつの間にか歳喰らうはずだ、と感慨深くなる。シノラーとは同い年なのです。他に堂光一、椎名林檎、浜崎あゆみも同学年であり、しみるねぇ。 この更新をするにあたって篠原ともえのブログ 09 年 6 月分にざっくりと目を通してみた。一ヶ月に 20 回以上とそこそこの更新頻度を保っている。画像は大きくて美麗。タイトル画像に映っている篠原ともえも往年のシノラーファッションではなくシックでセレブな装いだ。 で、文章を追っていってひとつ気付いたのだけれど、篠原ともえは自分のブログに顔文字・絵文字の類を、

    篠原ともえ 30 歳がやたら艶っぽい - テレビの土踏まず
  • 「一つの絶対知」としてのインタラクティブ経験

    たとえば,私が机のまえに立ったままで居て,両手でもってそれにのしかかっているという場合,私の手だけが強調されていて,私の身体全体はまるで彗星の尾のように手の背後へと流れて行っている.というのも,私の肩なり腰なりの位置が私にわからないからではない.テーブルのうえに突いた両手のその支えのなかに,私の姿勢の全体位置が言わば読みとられるからである.また,私が立って居て,私のパイプをを手で握りしめているという場合,私の手の位置というものは,私の手の位置が私の前腕とのあいだでとる角度,私の前腕が私の上腕とのあいだでとる角度,私の上腕が私の胴体とのあいだでとる角度,最後に私の胴体が大地とのあいだでとる角度──といったものから次々に推論されて行って決まるものではない.私は自分のパイプがどこにあるかを,一つの絶対知によって知ってしまっているのであり,まさにそれによって,私の手がどこにあるのか,私の身体がどこ

  • 舞台「五人姉妹」 ・・・身体の衝動と言葉の、葛藤から表現へ - モノと心の独り言

    こまばアゴラ劇場で、矢内原美邦 作・演出・振付の「五人姉妹」準備公演を、七月十一日に観た。 舞踏を、衝動の原点に立ち戻り、ことばを頼りに組み立て直してきたような ミクニヤナイハラ プロジェクトのvol.4。 舞台の設定は、両親が亡くなっている五人姉妹の家。 長女は、父の仕事を引き継ぎ捕らわれ、目覚めるのは一日六時間。 次女は、自分自身に向かい、三女は記憶を飛ばし、四女は直情、五女が論理。 男一人は、意識と心情を乖離させつつ仕えている。 「3年2組」の記憶から、「さよなら」のずれ、「青の鳥」の成長、 そして、身体の衝動とことばの関わりは、身体と表現が同調し始め 饒舌な五人姉妹に結実した。 究極は劇場に充満した笛の響きのような飽和点かもしれないが、 「おはよう」と言いながら新たにする日々の痕跡は、身体の慣性、言葉の癖へと染みついて、立ち振る舞いや対話の転換を支えている。 舞踏も演劇もほとんど観

    舞台「五人姉妹」 ・・・身体の衝動と言葉の、葛藤から表現へ - モノと心の独り言