この連載では、数回前から美術史的著述における「触覚」をめぐる議論について辿り直している。辿り直す、といっても、それらの諸議論はわかりやすい一本の系譜を成しているわけではない。それぞれの著者は、別の著者の「触覚」の議論と共通の知識や前提から出発している場合もあるのだが、そこからどのように作品分析に展開していくのか見ていくと、この連載の他の記事でも述べてきたように、驚くほどの多様性に満ちていることがわかる。過去の「触覚」の議論を承けていることを明らかにしている著述でさえ、具体的な作品分析を通して、別の議論を生じさせていく。気づけばそのロジックは、影響源となったはずの著述におけるロジックとは別のものになっていく。過去の触覚論を辿り直すことで浮かび上がるのは、「系譜」と呼べるような大きな幹を持たない諸議論のつながりと対立である。それは一本の幹から派生する枝葉の構造というよりも、縦横無尽に広がりなが
■はじめに――存在論アメリカの哲学者、マイケル・ハートの『ドゥルーズの哲学』(法政大学出版局、田代・井上・暮沢訳、1996)を読んでいる。そのうちの第一章「ベルクソンの存在論――存在の肯定的な運動」をいちおう読み終えたので、覚書として内容を整理しておきたいので書きました。 ……のはいいのだが、ハートによる説明でも難しいところがあり、よく読んでも分からないものは頭の中でスルーして、自分で噛み砕けたところだけ書きます。 第一章「ベルクソンの存在論――存在の肯定的な運動」は、ベルクソンの哲学(『物質と記憶』や『創造的な進化』などを書いてノーベル賞を受賞したフランスの哲学者)をドゥルーズが研究書としてまとめた、『ベルクソニズム』(法政大学出版局、檜垣訳、2017)という本の議論を下敷きにしています。ベルクソンを読み解くドゥルーズの態度、その意義と限界を著者のハートは記述しています(ここで簡単に、「
Le rhizome, Deleuze et Guattari : épisode • 1/4 du podcast Philosophie du réseau
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