わたしの観測範囲内でのことですが、このところ、更新が滞っているブログがとても多いように感じています。ある時期を境に、まるで口裏をあわせたかのように更新がピタッと止まってしまったブログが多いんです。一二年くらい前は、とても多くのブログが毎日のように更新がされていたなあ、などとお茶をすする日々。やはり毎日更新するというのは、それがどんな内容であっても、それだけで喜ばしいことなんだという思いを新たにしました。それとも、悪貨が良貨を駆逐してしまうとはこういうことなんでしょうか。 ところでわたしは、これは、というブログを見つけると、とりあえず追いかけることにしているのですが、いつの間にかそういうこともめんどくさくなってしまいました。で、鎮魂のつもりで、この半年から1年くらい、まったく更新されていないブログを巡礼していたのです。 このブログは、そんな死に体となったものの一つなんですが、出会い系サイトの
古イケダハヤトが名乗ることにより一躍脚光を浴びた「プロブロガー」という概念は、チョベリバなボヤ騒ぎばかり起こす当人たちによって、もうすっかり消費されてしまった感のある今日この頃。 そんな中、プロブロガーによる非常に残念な事例がにわかに世間を賑わせているようです。 プロブロガー「私の1日を50円で売ります! 依頼内容は何でもOK!」「今なんでもするって言ったよね?」 - Togetterまとめ 意識と熱量と野心ばかりが先行して、知性と想像力が周回遅れになっているような感じにとても好感が持てます。まあこの依頼主もたいがいなんですが、そんなことが霞んでしまうほどの酷い対応で、世間からの失笑を0円で買いとったミヤモさんのアレっぷりに、プロブロガーここにあり!と思わずにはいられません。このクソ暑い中、自らの体に火をつけてネットを走り回るサービス精神には頭が下がります。ご苦労なことです。 で、どうして
いつまで生きるか問題 - 意味をあたえる わたしがこの記事に反応したのは、つい先日、祖母の最期についていくつか記事を書いたからで、なんとなくわたしのことを言っているような気がしたからだ。また、これまでに不遇な老人と接する機会が多くあったこともあり、その度にいろいろと思うところがあった。それを「日常」という言葉を使って論ずる氏の見解になにひとつ合点できるところがなかったからだ。 たまにネットなんかを見ていると高齢者の話題がでていることがあり、そういうのに「高齢者は死んでほしい」というようなコメントを寄せる人がいるが、そういう人はおそらく若いのだろうが自分と年寄りが地続きであるという視点が欠けている。 記事の冒頭はこうだが、まず言っておきたいのは、わたしは「高齢者には死んでほしい」というようなことは思っていない。ただ、身内または近しい人物が、高齢からくる、または手の施しようのない病に伏せたとき
「ブログの面白さ」について2016年5月に沸き起こった議論の一覧 - シロクマの粘土板 議論というよりは話題といったほうがしっくりくる。少し前にも同じような話題があったのだが、そのころと比べてわたしの考えが変わってきているので書いておく。 「面白い」という感覚は主観であるのだから正解も間違いもなく、ただ自分の好みに合わないからといって面白くないとか互助会だと言ったところで、テレビ番組に向かってつまらないと言っているようなもので、運営側やあちら側としては「お前のためだけのものじゃねーんだよ」としか思わないだろう。つまり、いちゃもんをつけてるだけに過ぎず、コンビニのレジで「俺の価値観に合わせろ」と店員に吠えてるようなもので、むしろその身勝手さが痛々しい。 面白さについて何かを語ろうと、ましてや何かをdisろうとするのなら、なにかしらの面白さのよりどころを作ってやらないといけない。この場合、まず
とりあえずソッコーでメインシナリオをクリアしたんです。 コーヒー牛乳を飲みながらエンドロールを見ていると、わくわくが止まらないわけですよ。ここからがこのゲームの真の本番なんだなって。思わず顔つきが男塾の雷電みたいになってるわけですよ。いよいよか、と。 あ、GTA5の話なんですけどね。 このゲームにはオンラインモードがあって、オフラインで培った技術はオンラインで無双するためのものだと思いながらやっていたわけですよ。だからメインシナリオをクリアしたときこれでオンラインで遊べるくらいのテクは身についただろうと、輝かしい廃人の世界への架け橋ができたーなんつって喜びもひとしおなわけですよ。したら、オフラインのほうでもまだもうちっとだけ続くんじゃ的な感じになって、やだ……まだあるの……?なんつって飯島愛みたいになってしまいながらもやっぱりオンラインモードデビューするわけじゃないですか。 で、わけもわか
特別お題「青春の一冊」 with P+D MAGAZINE わたしは田舎の小さな高校に通っていたのだが、高校三年生のとき、科目に新しく「選択授業」というものが加わった。といっても、選択肢は「スポーツ」か「図書」の2つしかなかった。 「選択授業」は、毎週水曜の5時限目、2年生の1クラスと合同で行うもので、内容は自習、つまり何をやってもいいということだ。わたしは工業科で、わたしの年だけ女生徒が一人もいなかった。商業科もあったので、女子は男子以上にいたのだが、わたしにとっては、男子校のような毎日だった。ホームルームで担任が「今から紙を配るからどちらか希望を書いて提出しろ」と言った。当然、クラスの男子は「スポーツ」一択だった。皆が口々に、サッカーをやろう、バスケをやろうと、とても盛り上がった。クラスには、オタクたちも数人おり、端に集まって話し合っていたが、消去法で「スポーツ」を選ぶようだった。とに
暑さ寒さも彼岸まで、などと申します。 陽射しは明るく暖かく、吹く風はさわやかで心地よく。住まいから見える山々が、ぽつぽつと桜色に染まっております。春爛漫でございます。みなさま、いかがお過ごしでしょうか。 彼岸というのは仏教用語でございまして、春分の日と秋分の日を中日とした一週間を指します。世の中は、花見やら就職やら進学やら、なにかと忙しい時期ではございますが、彼岸と言えば、忘れちゃいけないのがお墓参りでございます。 わたしの家族は、父方と母方の祖父が亡くなっております。そんなわけで、両祖父のお墓参りにいってきました。 父方の祖父のお墓は、家の近くにあります。地区の自治会が管理している四、五十世帯分ほどの小さな墓地は、山を切り拓いて作ったニュータウンの端っこにありまして、そこは、わたしが生まれる前から墓地でした。数年前、お墓の前に老人ホームが建ちました。どこでもそうだと思いますが、墓地の一画
ひょんなところから視界に入ってきた下の写真は、一見して普通の手積み麻雀の風景なのですが、おかしいところがめちゃくちゃ多くて気になりまくったので、指摘しまくりたいと思います。この写真は麻雀を全く知らない人か、ルールをよく知らない初心者が撮ったものと思われます。 みなさんも考えてみてください。 Yuki Yaginumaさんの写真 Majan/麻雀 4 | Flickr - Photo Sharing! サイコロは真ん中に置くもの サイが邪魔にならないように真ん中に置く、これ絶対。サイの目を誰でもが見える状態にしておくという意味もある。普通は真ん中に向けてサイを振り、対局中は真ん中に固めて置いてあるのだが、わざわざ写真のような場所に移動させるはあり得ない。合理的意味も展開的意味もない。 山が乱れすぎてない? 山(裏向きで2段に積まれている牌の列)を見ると、とても乱れていることがわかるが、こんな
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