@tigercatver2 ↓土呂久鉱害訴訟は宮崎地裁訴訟が昭和50年。平成2年最高裁和解まで係争だけで15年。被害の顕在化は戦前と昭和30年代からからだから、ゆうに半世紀近い。 【参考】低額あっせんで押し切られた (土呂久 砒素のミュージアム) http://toroku-museum.com/part3/305/ 1972年12月27日、7人の患者は宮崎県の車に乗せられて宮崎市に向かった。県は会場を秘密にし、患者に代理人がつくことを認めず、あっせん交渉をおこなった。県の提示した補償額は低く、納得しない患者3人に対し、夜遅くまで説得がつづけられた。 翌28日午後、患者と住友金属鉱山の間で、知事あっせんを受諾する確認書が調印された。補償金は、最初の提示よりわずかに上乗せされて、最高が350万円で最低が200万円、半世紀にわたる健康被害の償いは平均240万円とされたのだ。 佐藤鶴江さんは、水
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