2010年10月29日のブックマーク (4件)

  • 公共性と痩我慢について - 内田樹の研究室

    高橋源一郎さんの「午前0時の小説ラジオ」が復活して、今朝は「公的」と「私的」という論件が採り上げられた。 ぼくもそれについて高橋さんに追随して言いたいことがある。 まず、高橋さんの「ラジオ」から全文を引用。 「尖閣諸島」問題(中国にとっては「釣魚島」問題)でマスコミに「売国」の文字が躍った。「尖閣諸島はわが国固有の領土」といってる首相が「売国奴」と呼ばれるのだから、「中国のいってることにも理はある」といったらどう呼ばれるのだろう。非国民? 「尖閣」諸島はもともと台湾に付属する島々で、日清戦争後のどさくさに紛れて、下関条約で割譲されることになった台湾の傍だからと、日が勝手に領有を宣言した、ということになっている。だとするなら、台湾を返却したなら、「尖閣」も返却するのが筋、というのも無茶な理屈じゃない。 というか、領土問題は「国民国家」につきまとう「不治の病」だ。日中国も、同じ病気なのだ

    ymdymdymd
    ymdymdymd 2010/10/29
    「僕がやらないと誰もやらないから僕がやってるだけであって、君が僕と同じ考えであるとは思わないから、君は君で自分の思うようにするといいよ」(by痩我慢くん)・・・ということなのでしょう。(最終段落の解釈)
  • 「反日」の意味について - 内田樹の研究室

    MBSの朝のラジオ番組に呼ばれて、中国の反日デモについて、パーソナリティの子守さんと、解説の毎日新聞の相原さんとお話をする。 別に中国問題の専門家として呼ばれたわけではない(違うし)。 ただ、このイシューについて「とりあえず頭を冷やしたら」という提言をなす人がメディアではまだまだ少数派なので、話す機会を与えてくださったのである。 尖閣諸島をめぐる領土問題で、日中国のそれぞれのナショナリストがデモを繰り返している。 中国では前日の日国内でのデモに呼応するかたちで、「官許」の反日デモが行われた。 中国には政治的主張をなすための集会の自由が認められていないから、デモができるというのは、事前に当局の許可が与えられたということである。 ただ、この場合の「官許」の意味はいささかこみっている。 それは必ずしもデモが中央政府の意を受けているということではない。 今回のような領土問題にかかわるデモは、

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    ymdymdymd 2010/10/29
    「あなたはそう言うことによって何を言いたいのか?」→泣く子を叱りつける前に「なぜないているの?」と分析てきな問いを投げかけるのと同様に。
  • メディアの病 - 内田樹の研究室

    怒るまいと思っても、つい。 今朝の毎日新聞の論説委員がコラムでが大学院教育の問題点について指摘していた。 90年代からの大学院重点化政策についての批判である。 「『世界的水準の教育研究の推進』をうたい文句に大学院定員が拡大されたが、大量に誕生した博士たちを受け入れるポストは用意されなかった。路頭に迷いアルバイトでいつなぐフリーター博士なる言葉まで生まれた。」 この現実認識はその通りである。 国策として導入された大学院重点化である。そのアウトカムについても国は責任をとるべきだろう。 責任というと言葉が強すぎるなら、せめて、「定員増には、受け皿になる職がないという『リスク』も帯同しております」ということを大学院進学志望者たちに事前にアナウンスしておくくらいの「良心」はあってもよかったのではないかと思う。 それはよい。 問題はその次の段落である。 意味不明なのである。 「何年か前、さる大学に新

    ymdymdymd
    ymdymdymd 2010/10/29
    「つねに他責的な口調でシステム(他人)の非をならしているうちに...」これはメディアに限らず「会社の上司」ひいては先輩的立場に立つようになったすべての者にあてはまる。
  • 声を聴くことについて - 内田樹の研究室

    朝8時半から講堂で中高部の生徒たちのために奨励。 「奨励」というのは、キリスト教の礼拝の中で、聖句をひとつ採り上げて、それに基づいてお話を一つすることである。 私が採り上げたのは、『コリント人への手紙一』7:24 「兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の前にいなさい」という聖句である。 私はこの聖句から「召命について」という奨励を行った。 レヴィナス老師が教えるように、聖句の意味を知るためには、必ず前後の聖句を読まなければならない。 聖句の意味は文脈依存的だからである。 7章は性愛と結婚についての教えが書かれている。 基的な考えは「夫はを離別してはならない。は夫と別れてはならない」ということである。 結婚したら、「そのまま」でいなさいというのが聖書の教えである。 与えられた状況でベストを尽くせ、と。 「おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。」(7:20)

    ymdymdymd
    ymdymdymd 2010/10/29
    『神がそこにおいて私たちを「召した」ということは、「そこ」に私たちが果たすべき仕事があるからである。』→そしてその果たすべき仕事が何であるのかは、「聴く」のであって「考える」のではない。