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任天堂に関するyo4ma3のブックマーク (5)

  • プレステ論

    プレイステーション論 1.ネメシス(復讐)としてのプレイステーション 一見明るいイメージのPLAY STATIONであるが、その裏に、これほど強烈な怒りをしのばせたマシンもないであろう。まさに、復讐という言葉がぴったりである。 <任天堂vsソニー:ファミコン対MSX> ソニーのゲーム業界への参入は、いつだったろうか。最初は、SMC-777向けにソニーブランドでゲームソフトを出していたと思う。 やがて、MSX企画の登場により、松下と共にMSX連合の中枢を担った。特に、MSX2はソニーと松下2社の共同戦線のイメージがあった。もちろん、敵は任天堂である。 ソニー/松下という2大企業が連合すれば、単なるゲームメーカーに過ぎない任天堂では勝てないだろうと思われた。 <ナムコと任天堂> しかしながら、任天堂は、この戦いにも、セガなどのゲーム機メーカーとの戦いにも勝利する。この要因はいろいろあるだろうが

  • 97年度基礎演習受講生の作品集

    yo4ma3
    yo4ma3 2011/03/08
    ソニーがプレイステーションでゲーム機市場参入に成功したわけ
  • ファミコンの歴史 ファミコン誕生秘話から現在の二極化時代までの軌跡

    83年7月・・・ファミリーコンピュータという怪物が発売された日である。僕は小学校に入るか入らない かという時代である。当時、国内では、米国アタリ社の「アタリ2600」、エポック社「カセットビジョン」 セガ「SG−1000」など、14社におよぶ家庭内ゲーム戦争が勃発していたのだが、一番 後から出たのが任天堂「ファミリーコンピュータ」であった。しかし、それから市場がどうなっていった のかは皆さんもご承知の通りで、ファミコンの一人勝ち時代・・・いわゆる「ファミコン黄金時代」に 突入していくのである。 では、なぜファミコンが一人勝ちしたのか?・・・そんなことわかってたら僕が作ってます! (当時小学生がなに言ってるか!)なんてのは冗談だが、それにはポイントが2つあったと思う。 それは、まず値段の安さだ。当時の家庭内ゲーム機の相場は3〜5万円程度で、どれもお年玉では かなりキツい値段であった。しかし

  • 日本テレビゲーム史 1 〜ファミコン誕生〜 - neko★日本視

    かつては不況知らずといわれたゲーム業界も、最近はすっかり元気がなくなり、作っても売れない、という深刻な局面を迎えている企業が多いといわれます。 このあたりの事情については、『ゲーム批評』の最新号でも特集していますが、今日はそういう深刻な問題はさておいて、今日に至るまで日ゲーム(しかも、家庭用ゲーム機を中心としたもの)についての歴史を辿ってみたいと思います。 まず、日テレビゲーム史において燦然と輝く存在が任天堂。 今や SCEI(Sony Computer Entertainment Inc.)に押されてナンバー1の地位は明け渡したものの ファミコンが日ゲーム市場を牽引してきたのは事実です。 さて、その任天堂ですが、会社としての歴史は古く、花札製造会社として京都に創業されたのはなんと1889年。社名は「任天堂骨牌」でした。 1889年といえば、大日帝国憲法が発布され、東海道

    日本テレビゲーム史 1 〜ファミコン誕生〜 - neko★日本視
  • 三十歳から四十五歳を無自覚に過ごすな ~任天堂社長 岩田聡氏~ - 中小企業診断士 和田伸午のおもしろビジネス放談

    ちょっとご無沙汰しておりました「三十歳から四十五歳を無自覚に過ごすな」。梅田望夫さんの著書「ウェブ時代をゆく」で下記の文章に大変感銘を受けたことをきっかけにスタートしております。 「三十歳から四十五歳」という難しくも大切な時期を、キャリアに自覚的に過ごすことが重要である。(P194) 今回ですが、梅田望夫さんのウェブブック「生きるための水が湧くような思考」の中で、若者たちの新しい「ロールモデル」(お手)として見つめ直す必要がある。」と記述されている人物。その名は任天堂代表取締役社長 岩田聡。 当時ソニー「プレイステーション2」の後塵を拝していた任天堂の代表取締役社長に就任後、ニンテンドーDS/DS Lite、Wiiを世に送り出し、瞬く間に任天堂を首位の座に返り咲かせた立役者、岩田聡。現在のその華麗な実績に至るまでの30歳から45歳の道のりは、極めて苦しく険しいものでした。今回は岩田聡さん

    三十歳から四十五歳を無自覚に過ごすな ~任天堂社長 岩田聡氏~ - 中小企業診断士 和田伸午のおもしろビジネス放談
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