1 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2009/03/01(日) 20:55:25.67 ID:XcWd8sKG0
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2ちゃんねる戦国時代板、「戦国ちょっといい話」 「戦国ちょっと悪い話」スレのまとめサイトです。戦国時代板 http://ikura.2ch.net/sengoku/ 359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/31(火) 22:22:13 ID:izyupzgK 天正10年(1582)6月、備中高松城を水攻めにした秀吉軍は、高松城主・清水宗治の 切腹をもって包囲を解くことになった。 宗治の兄は病弱で、弟に家督を譲り、出家して月清と名乗っていたが、 その話を聞きつけて高松城にやって来た。 「弟を自害させて、わしが生き残っても仕方ない。三木城の別所長治殿も、弟がともに 死んだそうな。ここは、わしも一緒に腹を切ろう。」 宗治は、兄の申し出を断った。「私は無念の事あって切腹するのではない。 城主として、兵たちの命と引き換えに腹を切るのだ。兄者が死んでも何もならん。」 「ならば
2ちゃんねる戦国時代板、「戦国ちょっといい話」 「戦国ちょっと悪い話」スレのまとめサイトです。戦国時代板 http://ikura.2ch.net/sengoku/ 353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/01(水) 16:20:50 ID:99L9CO5B 大ぬる山 天正元年(1573)8月、刀根山に陣取った朝倉軍と、その麓の織田軍との対峙は続いていた。 ある日、信長は井楼に上がり 「敵は今夜引く。先陣の者たちは油断するな!」と使いをたびたび出して下地させた。 が、これを聞いた先陣の者達は 「殿は何を言っているんだ?敵は大軍、しかも地の利を得て、あまつさえこれは主力決戦だぞ。 こっちならともかく、敵が引くわけが無い。」皆そう言って、あまり気にしなかった。 信長は夜になっても井楼から降りず、敵陣をにらみ目も離さなかった。 丑の刻、信長の声が響いた、「敵は退くぞ!」
2ちゃんねる戦国時代板、「戦国ちょっといい話」 「戦国ちょっと悪い話」スレのまとめサイトです。戦国時代板 http://ikura.2ch.net/sengoku/ 414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/03(金) 09:29:12 ID:3IoLrvd+ 又兵衛桜が見ごろの季節ですね 有名すぎる逸話ですが 石田三成捕縛、そして各大名とのやりとり 関ヶ原敗戦後、捕縛され、大津城の入り口で さらし者にされていた石田三成公 (ケース1:黒田長政) その前を黒田長政が通りかかりました 「勝敗は天運とはいえ無念でしたなあ」と下馬し羽織をかける (ケース2:細川忠興) その前を細川忠興が通りかかりました 声もかけず、目もくれず通り過ぎていきました (ケース3:市松) その前を福島正則が通りかかりました 「無益な戦乱をおこし、このようなありさまか これが五奉行として権勢を振
2ちゃんねる戦国時代板、「戦国ちょっといい話」 「戦国ちょっと悪い話」スレのまとめサイトです。戦国時代板 http://ikura.2ch.net/sengoku/ 455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/06(月) 15:43:35 ID:mZo7OgO8 永禄(1558~)の、始めの頃の事。 宇喜多直家は、自分の舅である中山信正の居城、亀山城から沼を隔てた東茶園畑という場所に 小さな茶亭をつくった。そして狩に出た帰りにはそこで休憩した。この時亀山城から信正も呼び、 狩の獲物を調理し共に酒宴を楽しんだ。 こういうことが何度もあったので、信正は、「城からここにすぐに来れる様にしよう。」と、城と茶亭を 隔てる沼に、橋をかけた。 さて、二月になって、直家、いつものように狩に行き、日が暮れてから件の茶亭に行った。 その夜は信正の勧めで亀山城に入り、共に酒宴をし、夜も更け
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