「反省することで自分のもっと良くするところが見えてくる」 以上 とある大学生でした
私がこの1年間「歴史学部」に所属して本当に色々変わりました。 今回は、私自身ですが何が変わっていったのかについて話していけれたらいいと思います。 高校生の皆さんで見ている方がいらっしゃるのであればぜひご参考ください! ですがあくまでも「仮説」としてでお願いします。 目次 歴史を見る目が変わった 教科書の歴史に疑問が出てきた 歴史を語る上でより深い所に目が付けれるようになってきた 知識の重要性が理解出来た。 1.歴史を見る目が変わった 高校の頃と歴史を見る目が変わりました。 政治史ばかりみていたのが 「文化」や「経済」や「史料」 など多様になってきました。 あとは、人物よりも その出来事でなにが起こり何が原因でこうなったのかについてを見るようになったり、他の学者はどのような考え方でこの歴史を見ているのからなどと 「他者の歴史観点」が中心になってきました。 2. 教科書の歴史に疑問が出てきた
今回は、大学生が歴史を考えるらしい話題です。 今回は、「世界史的に考える」ということに関して考えて見たいと思います。 新しい考え方を見つけるためには、別の視点を見てみることが大事です。 その重要性を考えてみたいと思います。 目次 世界史的に考えるとは? 世界史からの視点 1. 世界史的に考えるとは? 私が考える、世界史的とは、歴史を全体としているということです。 歴史を1部分だけでみても深いことが分かります。 そちらの方がひとつの歴史を考える時には良いかもしれませんが、その何かひとつが 「出来事の連鎖」によって起きたことであるならば それは、その出来事に関係することがらを全て理解すること、 もしくは、分析しなければいけないのではないのでしょうか? さらに世界史的に考えるということは、世界の視点で物事考えることとも言えます。 このことについては、後で話します。 実際、今では、世界の歴史を知る
今回は、チョークの歴史について話していきたいと思います。 チョークは、白色や赤色様々です。 前聞いたところによると、チョークは、卵の殻で作られているとも言われています。 それではいきましょう。 目次 チョークの歴史 考察 1.チョークの歴史 チョークの原料である、「白亜」と言われるものでこれは、今で言う石灰岩です。 なぜ白亜というのかというと、白亜は、1億4000万年前から6千4百年前を白亜紀と呼んでいて、この時期に形成された地層であることから言われています。 原産は、「イギリス」です。 チョークの元となったのは、フランスで作られた、石膏の粉末を焼いて水に溶かし、型にはめて棒状に固めたものからです。 日本では、明治6年頃に大阪で輸入されたのが初めてです。 次第にチョークは、作られていきました。 当時の製法は、七輪で石膏を焼き、それらを金槌で砕いて、水と混ぜ合わせて作られていました。 作られ
節分がありますね。 私も小さい頃は、豆まきをしました。 「鬼は外、福は内」、小さい頃は、福は内の意味がよく分かりませんが流石に今では分かります。 今回は、「節分」について話していきたいと思います。 目次 節分とは? 豆まきの由来 豆まきの仕方 節分の魔除け 考察 1.節分とは? 本来、節分は、季節の節目のことです。 節分は、冬から春に変わる時の節目です。 旧暦では春から新しい年が始まっていました。 なので大晦日と同じぐらい大事な年中行事と言われています。 2.豆まきの由来 邪気を払う一環として行われていたものの中に、 「豆打ち」があり、その名残で「豆まき」が江戸時代には、庶民の間に広がっていきました。 豆を打つからまくに変化していった背景には、 農民が畑に豆をまくしぐさからきています。 3.豆まきの仕方 豆まきをするには、条件がたくさんあります。 まず豆は必ず炒り豆で行わなければなりません
さて、今回は、これから受験をしていく 高校生や中学生、の皆さんに向けて書いていきたいと思います。 受験で戦略的に勝つということをテーマとして話していきたいと思います。 目次 勉強を始める前にある程度の目星をつけておく その分野が教えれるレベルまでに磨く 音読をしていく 絶対に覚えるとアタマまで念じてから勉強し始める 1.勉強を始める前にある程度の目星をつけておく やはり目標を決めておいた方が「やるべき事」が見えてきます。 ある程度勉強に対する「計画」を立てておくことは、大事です。 基礎⇒応用⇒基礎復習⇒発展みたいな感じに どの順番でどういう目標を立ててやっていくべきなのかを考えるべきです。 さらに勉強時間を確保していくのも戦略のうちです。 朝ちょっと早く起きて勉強してから学校いくであったり 夜は暗記系中心でやるなどです。 2.その分野が教えれるレベルまでに磨く 勉強が教えれるようになるまで
今回は、鎌倉幕府の力と言うものがかなり大きくなったとされる 「承久の乱」について話していきたいと思います。 目次 承久の乱とは? 考察 1.承久の乱とは? 承久の乱とは、 後鳥羽上皇が鎌倉幕府を敵対視して戦ったものです。 これには、後鳥羽上皇の考えがあります。 それは、「朝廷の政治」の立て直しというものが1番の目的です。 そのために後鳥羽上皇は、分散をしていた領土を治めるとともに 「西面の武士」 を設置し、幕府との戦闘に備えました。 1219年には承久の乱の発端となる 鎌倉幕府3代目将軍 源実朝が公暁によって暗殺されてことから関係が悪化し、1221年に 後鳥羽上皇が「北条義時追討の兵」を上げました。 ですが幕府側にいた、源頼朝の妻であった 北条政子が幕府軍に呼びかけを行い戦いました。 その結果は、後鳥羽上皇の軍は、敗北し 幕府は、「仲恭天皇」を廃し、後鳥羽上皇を隠岐に 「土御門天皇」を土佐
皆さん 私はふと思いました。 蛍光灯っていつからあるのだろう?と そこで今回は、「蛍光灯」の歴史について話していきたいと思います。 今では欠かせないものの一つに「電気」 があります。 蛍光灯はいつからあるのでしょうか? 調べていきましょう! 目次 蛍光灯の歴史 考察 1.蛍光灯の歴史 蛍光ランプ自体は、米国、つまりアメリカで作られていました。 開発したのは、「インマン博士」と言う人です。 実用かされたのは、1934年頃です。 ですが一般に普及し始めたのはすこし先でした。 日本では早急に事業としていこうということで 「藤田文太郎」 「射和三郎」 「轟甚三」 は、インマン博士から直接技術指導を受けました。 法隆寺の金堂壁画模写事業においては、 熱がなく明るい照明として完成寸前の蛍光灯が使われました。 これが日本で初めて蛍光灯が実用化された時でした。 戦時中は、海軍などの潜水艦などにつけられてお
はい!やって参りました。 「城郭を考える」シリーズ さてさて今回は、「名古屋城」について考えていきたいと思います。 最近、本丸御殿が復元されましたね! 私も前行って来ましたが細かい職人の技が多数見える良い建築部だと思いました。 1.名古屋城とは 名古屋城とは、 名古屋城は、別名金鯱城 金城といわれています。 これは、名古屋城の上に金鯱があるからだと考えます。 名古屋城の象徴の1つのですね。 築城主は、徳川家康で形式は、平城です。 緑色の屋根が特徴ですね。 なんといっても金鯱ですね。 2.名古屋城の歴史 この名古屋城が作られた背景には、豊臣家への包囲網が作られることが狙いです。 そこで、築城工事は、西国大名一九家に助役として築城が開始されました。 かなりの人数で築城に取り掛かったので 作業は急ピッチで進みました。 ですが築城している際に大阪冬の陣と夏の陣の影響でなかなか築城は進みませんでした
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