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2017年6月11日のブックマーク (3件)

  • ゆうきまさみ発掘資料集・自作キャラ評価から裏話まで~『内海は絶対殺さなきゃいけない』のはなぜか?

    色々あれだけど、資料として残したくて…手元に、ゆうきまさみ先生の漫画版「機動警察パトレイバー」が連載終了した1994年当時、各雑誌などに掲載された企画記事や対談のコピーがあり、今は「古典」としての地位を確立した同作品の研究や考察をする時に、絶対に役立つものだと思うのです。 それを読んでほしくて、できる限り部分的に分けて、紹介したツイート集です。 この前、偶然にもここで語っておられた作者ご人から「懐かしい、すっかり忘れてた」とういうコメントを頂き(笑)、少なくとも「隠れた資料」の一つではあるようです。 ツイートを使わせていただいたアカウントはこちら(※追加は除く) 続きを読む

    ゆうきまさみ発掘資料集・自作キャラ評価から裏話まで~『内海は絶対殺さなきゃいけない』のはなぜか?
  • 農業科学博物館・第30回企画展「昔の岩手・農家の衣服」

    我々の祖先は、生活の基礎である「衣」「」「住」の多くの場面で「自給自足」を基として暮らしてきました。 こと「衣生活」においても、自分で野山の植物繊維を採取し、糸をつむぎ布を織り、藍で染めて衣類を作って着る、という時代が長く続きました。 県では衣類の原料として、山野に自生している蔓もの(やまぶどう・くず・ふじ)、樹皮(すぎ・ひのき・まだ)、野草(あいこ・あかそ・からむし)そして栽培された麻が主に用いられ、後に奨励された養蚕による絹製品や移入された木綿製品など、上質な衣類を使うまでにはかなり年月を要しました。 特に岩手は気候的にワタの栽培が出来なかった事や、江戸幕府の政策に従った南部藩の「衣服令」により、庶民が絹や木綿を着用することは長年に渡り規制されてきました。また、中央に遠く物の運搬にも不便だった事から、上質な衣服材料の移入は北上川の舟運、東北線の開通によって交易が拡大するまでは、

    yomo_w5_3
    yomo_w5_3 2017/06/11
    "県内共通性の高い上衣(腰丈までの短衣)の場合(略)各地方それぞれ共通する部分と特異な部分があり""雫石の野良着(略)の手の込んだ作りは、(略)「よそ行着」として通用する優れたものと評価されています"
  • 「チャグチャグ馬コ」という名前は、宮沢賢治が呼び始めたと聞いたが、なぜそう呼ばれ、賢治の作品にはいつ... | レファレンス協同データベース

    「チャグチャグ馬コ」を、宮沢賢治が呼び始めたという記述は見つからなかった。 今回確認できた中で「チャグチャグ馬コ」という呼ばれ方の最も古い記録は、「岩手毎日新聞」明治40年6月25日3頁最下段の記事中(賢治は当時11歳)。 賢治の作品に「チャグチャグ馬コ」が初めて登場するのは大正6年の短歌「ちゃんがちゃがうまこ」。5~6月に4首作られ、7月に同人誌「アザリア」第一号に8首(先の4首と重複あり)発表された。 「チャグチャグ馬コ」……『岩手百科事典』〔参考資料1〕p.486-487によると、「旧暦5月の端午の節句の早朝、盛岡とその近郊の農村から、飾った馬に乗って滝沢村のお蒼前(そうぜん)様に参けいする行事。首につるした鳴輪(なりわ)と装束についている鈴が走ると鳴り、「チャグチャグ」と聞こえるのでその名が出た」。 『東北文学の世界』第6号〔参考資料2〕p.50、『新宮沢賢治語彙辞典』〔参考資料3

    「チャグチャグ馬コ」という名前は、宮沢賢治が呼び始めたと聞いたが、なぜそう呼ばれ、賢治の作品にはいつ... | レファレンス協同データベース
    yomo_w5_3
    yomo_w5_3 2017/06/11
    "「チャグチャグ馬コ」という呼ばれ方の最も古い記録は、「岩手毎日新聞」明治40年6月25日3頁最下段の記事中(賢治は当時11歳)""自然発生的に行われるようになった民俗行事であり、(略)始まりは明らかではない"