すみません、タイトルの「決して紹介されない」は煽りです。紹介している人はいます。(たぶん) *** 私は外国語教育研究に片足を突っ込んでいる ――大学院は「外国語教育講座」所属で、当時の指導教官はJACETの元副会長だったわけで「片足を突っ込んでいる」くらい言わせて欲しい――わけだが、もう一方の足は外に出ているので、スタンダードな文献紹介は他の人に任せて、ふつうは「必読」などとは言われないであろう「必読文献」を列挙してみたい。 初学者を惑わすことになるかもしれないので、「必読」と書いてあるけれど、「必読(笑)」くらいに理解してもらえればこれ幸い。 初学者を惑わさない文献リストはたとえばこちら。 英語科教科教育法参考文献一覧 英語教育研究法セミナー 英語教師になる人のためのブックリスト(私家版) | 静岡大学 教育学部 英語教育講座 亘理研究室 「能力」とは何か 人間の測りまちがい〈上〉―差
3月に入ったので、今年もまた新入生向けの記事をはじめよう。 最初は「学生のときに知りたかった」と言われた記事をまとめてみた。 1 大学はどういうところか? 文献学からはじまった → 研究する大学と専門分化した科学の起源 大学で学問研究をするという今では当たり前のことは、19世紀初頭ドイツに端を発する。 これは研究と教育とを結び付けて行う新しいタイプの大学(研究大学)によるものである。 研究大学は、ゼミナール方式を採用し成功させることで、研究と教育とを結び付けるという理念を実現した。 ゼミナールでは、参加者は知識を伝授されるのでなく、自分で研究を行いゼミナールで発表し、他の参加者から批判的吟味を受け、討論することが求められた。 このためゼミナールは研究者を育成するのに優れ、また批判的吟味の習慣から議論の厳密化や研究の実証性が追求される傾向が生まれた。 ゼミナールはまた、実験室を大学に持ち込む
提言型政策仕分けで「大学改革の方向性」が仕分け対象となりました。僕の専門分野は基礎教育で、高等教育はそれほど明るくないのですが、あまりにも分析が稚拙な点が見られたので少しその点を分析してみようと思います。 僕が気になった議論は、「大学数や入学定員が過剰ではないか?」「定員割れによる学力低下」の2点です。驚くべき事に評議員の10人中10人が大学の数は過剰であるとしていて、誰一人として大学の数は過剰ではないに賛成していません。ちなみに、池田信夫氏のアゴラやChikirinの日記でも大学の数が多すぎるのではないか?という問題提起がなされています。これは正しいのでしょうか?先に僕の考えを書いておくと、日本の大学数や入学定員は決して過剰ではない、です。 大学生が多すぎるのではないかという議論は日本だけでなく、アメリカでも行われています。今年に入ってからでも、NY TimesでDo we spend
私立学校初任者研修近畿地区研修会という長い名前の集まりで講演。 夏休みに入ってこれで教育関係の講演が4つ目。これでおしまい。 近畿六都府県の私立の中高の新任教員のみなさんを対象にした二日間のセミナーのはじめの方でお話をさせていただく。 お呼びくださったのは去年の今頃に舞子ビラでやった兵庫県私立中高連合会中堅教員研修会のときの肝いりのみなさん(甲陽学院の石川義明先生、灘の倉石寛先生、雲雀丘学園の玉井英夫先生)。 玉井先生は釈先生の恩師である。 私のような態度の悪い男を二度までも研修の講師に招聘しようというのであるから、ずいぶんと悪戯心にあふれた先生方である。 お昼ご飯をご相伴しているときに、先生方のお話を側聞すると「ニシベ」とか「ブント」とかいう単語がもれ聞こえる。 あら、悪戯心の起源はそっち方面でしたか。 そういうことであれば、私としてもグローバル資本主義批判を全面展開するに遠慮はいらない
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