ブックマーク / bushoojapan.com (3)

  • 吉本興業の創業者・吉本せいはどんな経営者だった?波乱の生涯60年

    明石家さんまやダウンタウンなど、数多の人気芸人を輩出し、日のお笑い界に君臨する吉興業。 その歴史が明治時代、一人の女性によって始められたことを皆さんご存知でしょうか? って、今更何言ってんだ、という話ですかね。 2017年10月に放送されたNHK朝ドラ『わろてんか』。 その主人公・藤岡てんは、吉興業の創立者・吉せいさんをモデルにしたドラマです。 劇中では快活で明るい女性像で描かれましたが、史実の彼女は「ええとこのお嬢さん」どころか、若い頃から苦労に苦労を重ね、数多の芸人を育ててきた強い女性でありました。 吉せいさんとは一体どんな人物だったのか? その生涯を振り返ってみましょう。 12人きょうだいの三女として生まれ1889年(明治22念)、せいは兵庫県明石市の米穀商・林家の三女として誕生しました。 家はさほど裕福ではなく、また12人きょうだいであったため、楽な暮らしぶりとは言えませ

    吉本興業の創業者・吉本せいはどんな経営者だった?波乱の生涯60年
  • 40万部のベストセラー『応仁の乱』呉座勇一が人気を博した理由は?

    2016年10月の発売から、約40万部のベストセラーとなった呉座勇一氏の『応仁の乱―戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)。 歴史では近年にないうれしいニュースである。 いったい書はなぜそれほどの人気になったのか。 読みながら分析してみた。 著者の呉座勇一氏は1980年生まれの若手の中世史研究家(国際日文化研究センター助教)であり、SNSなどでも人気がある次世代の研究者だ。 京都で起きたのに観測地点を奈良にまず応仁の乱(1467~77年)は、名前はメジャーであることがあげられる。 だが中身についてはマイナーである。 ざっくり知られているのは「室町幕府が衰退し、戦国時代のきっかけになった戦争」ということくらいだろう。 そもそも誰がなんの目的で戦ったのかもよく知られていない。 むろん、東軍は細川勝元、西軍は山名宗全と、「だれが」についてはわかっている(もっとも彼らの名前も関ヶ原の合戦の徳川家

    40万部のベストセラー『応仁の乱』呉座勇一が人気を博した理由は?
  • 本能寺直前に土佐の長宗我部と明智との書状のやりとり判明

    能寺の変の直前に、四国の長宗我部元親が明智光秀の重臣にあてた書状が発見されました。 林原美術館(岡山市)と岡山県立美術館が23日に発表しています。 天正10年(1582年)6月2日に勃発した【能寺の変】の理由を巡っては、単独思い付き説、朝廷黒幕説など数多くありますが、なかでも有力なのが四国説。 当初の信長は、四国をめぐって光秀を交渉役(厳密には今回の書状宛先である重臣・斎藤利三)にして、長宗我部に対して 「四国は切り取り次第(勝手にやってくれ)」 と約束しました。 しかし、信長は光秀から秀吉に四国担当を交代して、長宗我部に「やっぱり、チミは土佐と阿波の半分だけねテヘペロ」とちゃぶ台をひっくり返すのです。 この流れに光秀が大きなストレスを抱えたことは間違いなく、能寺の変を起こす引き金になったといわれています。 今回、見つかったのは、岡山市の林原美術館が所蔵する戦国時代の古文書類「石谷

    本能寺直前に土佐の長宗我部と明智との書状のやりとり判明
  • 1