東京都の小池百合子知事は23日の定例記者会見で、新型コロナウイルス対策で人出を抑制するため、午後8時以降は街灯を除いて店頭などの照明を消すよう業界団体などを通じて要請すると明らかにした。
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東京都の小池百合子知事は23日の定例記者会見で、新型コロナウイルス対策で人出を抑制するため、午後8時以降は街灯を除いて店頭などの照明を消すよう業界団体などを通じて要請すると明らかにした。
「新しい日常」への違和感 202X年のある日、「あの頃大変だったよな、正直ちょっとビビった。でもまぁ、どうにかなるかな、と思っていたら、ま、あの程度で済んだんでよかったなって感じ」とコロナの昔を振り返る。そう終わればいいなと多くの人が不安を抱えながら、いま考えているのではないか。この「いま」とはこれを書いている2020年7月31日。そう終わるだろうか…。 この数ヶ月、20世紀の戦争の本をいろいろと読んでいる。戦争という「非常時」が、コロナ下の現在とよく似ているのに気がつく。非常時を、何とか「新しい日常」だ、と政府が人々をなだめようとしている図式に、お定(さだ)まりの「民に不安を与えてはならない」というこの日本列島近代のやり口がよく現れている。 淡々と変化なく、それと感じずに過ぎていくのが「日常」であって、そこに時々、お正月やお祭りなどの「非日常」、ハレの時間が現れる。だから「非日常」はあっ
中世のペスト流行を見るような気持ち この数ヶ月のあいだ、私は不思議な感覚でいた。筆者は感染症予防の歴史を専門とする研究者だが、パソコンのモニターに映り日々更新されていく「新型コロナウイルス」がつくりだす光景は、まるで中世のペストの流行を見るかのようだったからだ。いくつか例を挙げよう。 とくに驚いたのはイタリアの大規模な地域封鎖と、日本の「ダイヤモンド・プリンセス号」の隔離だ。こうした措置はもともとペスト対策としてつくられたもので、19世紀には使われなくなっていた。というのも19世紀に流行したコレラには封鎖や隔離が有効ではなかったし、それ以上に、人々の自由を制限しすぎて問題が大きいと考えられたからだった。今回は、19世紀に一度否定された方法が復活したというわけだ。 一方で、デマや人種差別が横行し、商品が買い占められるといった光景はパンデミックによく見られ、歴史にも容易に類例を見つけられる。
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