たまたま倫理や道徳のことを勉強をしていることもあってなんだが、話題になってることに口を挟みたい。特に自分が規範的意識が強いとかではないのだが、友人ともいえる人が自分の考えからあまりにも遠いところにいるのは道徳を訴える動機として駆り立てられるし、何よりもこんな中学生の作文みたいので何か言った気になってのが本当にアホだと思うので突っ込みたくなる。 問題となってるのは8月18日付の「日経新聞」に掲載された「子猫殺し」と題された坂東眞砂子という作家の文章である。一時的なソースがないため、直接引用はしないが特に問題はないだろう。 この話は以下の2点で批判することが可能である。1は彼女自身に対する批判、2は1の批判が妥当なことである理由と、彼女への道徳的批判を妥当ではないと主張する人への批判だ。 現代の功利主義的道徳から言えば、猫の嬰児殺しは猫の避妊手術よりも悪である。 自らの非道徳性を認めることの道
人間には、どうすることもできない性格の違いというものがある。 昔、都会のマンション住民を対象にして行われた世論調査に、「どのような生活を望むか」というのがあった。注意を引かれたのは、回答者の24パーセントが「来客のない静かな生活」をあげていることだった。 アパートやマンション暮らしの問題点として、よく住民同士の交流が少なく、めいめいが孤立している点が指摘されている。ところが、そうした「問題状況」をこそ望むものが、全体の四分の一もいるのである。気のあったものが集まってワイワイ騒ぐことを喜びとするものがいる一方で、他人が介入してこない静かな生活を求めるものも一定数存在するのだ。 画家の熊谷守一は、文化勲章を受けることを辞退している。その理由というのは、そんなものをもらったら、来客が増えて困るではないかというものだった。仲間と行動をともにすることを求めるタイプを「社会参加型」、来客を好まず自宅に
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