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ブックマーク / www2.ocn.ne.jp/~psyche (2)

  • 「良かれと思って」の罪深さ

    「良かれと思って」の罪深さ (03/01/31) 親は子に言う、「お前のために良かれと思って言っているのだ」と。 は夫に言う、「あなたのために良かれと思ってこうしたのだ」と。 教師は生徒に言う、「おまえたちのために良かれと思って先生はこれをするのだ」と。 人が誰かのためを思って何かをすること、それ自体は美しい行為である。相手のことを考え、こうすればきっと良い結果が返ってくるだろうと思えばこそ、人は「良かれと思って」と口にするのだ。そして、現実に人にとっても良い結果となるならば、言われた時には理解できなかった人も「ああ確かにあの時『良かれと思って』言ってくれたのはその通りだった。有難かった」としみじみ振り返ることができるだろう。お互いにとってこれほど幸いなことはない。 しかし、「良かれと思って」したことが常に良い結果に結びつくとは限らない。 それは当たり前のことだ。けれど、あろう

    yuhka-uno
    yuhka-uno 2011/02/13
    "それがどんなにつらいことでも、苦しいことでも、いやなことでも、「あなたのためなのよ」「良かれと思ってこうしているんだ」の一言はその行為を無条件に許し受け入れることを強要する。"
  • 「片づけられない」ことと「女である」こと

    「片づけられない」ことと「女である」こと -「片づけられない女たち」再考に端を発した思考あれこれ- (01/06/04) さて、なるほど刺激的なタイトルであった「とは」思う。 実際に、このを読んでAD(H)Dというものの存在をはじめて知り、「だらしない、当たり前のこともできないだめな私」像に苦しんできた人の多くが専門機関のドアを叩くことができたのだから。 もし、このの邦題が原題の直訳「ADDとともに生きる女性たち」であったとすれば、どれほどの人が手にとって読んでみようと感じただろうか? しかし、世の中…というよりメディアの世界では、”片づけられない”ということを文字通り極めてシンプルに捉え、「整理下手」「だらしない」「母親のしつけができてない」(なんでこういう時いつも”母親の”という冠がつくのかは謎である。いつも思うけど)「女として失格」「性格の問題」であるといった報道が堂々と

    yuhka-uno
    yuhka-uno 2010/05/10
    片付けられない「男」だって、本当は沢山いるはずだ。/家事って教わらないとできないと思うけど、ふつうは。
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