タグ

ブックマーク / number.bunshun.jp (9)

  • 実は言葉の人、落合博満。オレ流語録8年分、一挙公開!(村瀬秀信)

    退任の記者会見にて「中日以外のチームから監督のオファーがあればどうしますか」との質問に対し、「話があれば聞く」と答えた落合博満氏。「初老の男性に戻った。映画館の右の後ろで女房と映画を観たり、温泉にでも行きたいと思います」というコメントも残している 非常に楽になりました。監督という肩書は結構重たい。それを外して、普通の57歳か58歳の初老の男性に戻ったということじゃないでしょうか――。 11月22日。中日ドラゴンズ・落合博満監督の退任会見が名古屋市内で行われた。キャンディーズの解散会見、いや、10月31日にあった橋下大阪府知事の「普通の42歳に戻りたい」発言に続く、異能者たちだけに許された「普通の○○に戻る」発言は、落合博満がドラゴンズ監督としての重責を全うしたことを告げる最後の言葉となった。 思えば監督就任となった'03年10月8日の会見での、「どういうタイプの監督になるかは誰にもあてはま

    実は言葉の人、落合博満。オレ流語録8年分、一挙公開!(村瀬秀信)
  • 日本ハムが貫いたドラフトの信念。菅野騒動で問われる球団の姿勢。(中村計)

    津田敏一日ハム球団社長が菅野の指名権獲得を確認した瞬間。「スカウティングと育成で勝ち続けるのが、ウチのモットー」と胸を張った津田社長 当にそうだろうか。 先日のドラフト会議で、日ハムが東海大の菅野智之を先方に何の断りもなく指名したことについて、一部の関係者が「失礼だ」と憤慨しているという。 しかし、指名する場合、事前に監督等に連絡を入れるのは「礼儀」ではない。あくまで球界の単なる「慣習」だ。 どのような展開になるのかもわからないのに、指名するであろう選手にいちいち連絡を入れていたのではキリがない。おそらく今年も、何の連絡もないままに指名を受けた選手は菅野だけではないだろう。 そもそも日ハムでは、ドラフト当日まで、誰を指名するかを知っているのはGMを始めとするほんの数名の幹部だけだ。 日ハムのスカウト、岩井隆之が明かす。 「僕は横浜でもスカウトをしていたんですけど、日ハムにきてび

    日本ハムが貫いたドラフトの信念。菅野騒動で問われる球団の姿勢。(中村計)
  • 高木豊 「“蛙の子は蛙”ではない」 ~プロ野球選手の息子3人がサッカー選手になったわけ~(安藤隆人)

    ときに励まし、ときに挑発する。俊足巧打でならした名プレイヤーは、 自身とは違う道に進んだ息子たちに対して、父親としてどう接したのか。 高木家独自の教育方針に基づいた3兄弟への三者三様のアプローチに迫る。 「野球? やらせたいなんて全くなかったね」 『蛙の子は蛙』というが、高木豊にはこの概念は存在しなかった。かつて大洋ホエールズ、横浜ベイスターズ、日ハムファイターズに在籍した俊足好打の名選手。大洋時代は屋鋪要、故・加藤博一両氏と共に『スーパーカートリオ』として名を馳せた。現在はプロ野球解説者として、テレビや雑誌で幅広く活躍するが、彼の3人の息子たちは今、野球界ではなく、サッカー界に身を置いている。 清水に所属する長男・俊幸(20)、東京Vに所属(6月20日にオランダ・ユトレヒトへの移籍が発表)する次男・善朗(18)、東京Vユースに所属する三男・大輔(15)。3兄弟とも、世代別日本代表に選出

    高木豊 「“蛙の子は蛙”ではない」 ~プロ野球選手の息子3人がサッカー選手になったわけ~(安藤隆人)
  • <欧州を震撼させたニッポン人> 川島永嗣 「大量失点でMVPの理由」(中田徹)

    Number779号では、「5人の“突破者”たち」として、宮市亮、指宿洋史、 川島永嗣、細貝萌、瀬戸貴幸ら、異国で挑戦を続けるニッポン人の足跡を辿りました。 Number Webでは、今季、サポーターが選ぶ『プレイヤー・オブ・ジ・イヤー』に選出された川島永嗣選手(リールセSK/ベルギー1部)の記事を特別に全文公開します。 ちびっ子記者の激しい突っ込みが混じった質問に、川島は両手を叩きながら爆笑した。 これはリールセがファンサービスで開いた『模擬記者会見』の時の模様だ。リールセのサポーター連合会長、マルク・デ・ノエル(54)は、オランダ語を流暢に操りながら子供たちとコミュニケーションを取った川島の姿を思い出しながら目を細めた。 「川島はたいした奴だ。オランダ語は大変難しい言語なのにもう自由にしゃべっている」 今季、リールセの正GKとして活躍した川島はすっかりサポーターのハートをつかみきった。

    <欧州を震撼させたニッポン人> 川島永嗣 「大量失点でMVPの理由」(中田徹)
  • 大相撲の「八百長」って何だ!? ~Number創刊年に載ったコラムを再発表!~(設楽敦生)

    「大相撲の『八百長』って何だ!?」 この特集を組んだのは1980年。ちょうど「Number」創刊の年でした。 当時、大相撲は年間を通して殆ど満員御礼というブームの最中にありました。 現・貴乃花親方の父である初代・貴ノ花が群を抜いた人気を誇りつつも、 ウルフこと千代の富士が次代のスター力士として急成長している時代でした。 ――30年が経った2011年。ふたたび日中を騒然とさせている八百長問題。 わたしたちは、この記事に再び陽の目を当てるべきだと考えました。 ウェブにしては長文なのですが……それだけに読み応え充分です。 大相撲の八百長。古くて新しい難問に対する一つの考え方がここにあります。 「“内部告発”を続ける某週刊誌」と表紙でお伝えしたのは『週刊ポスト』誌である。 かれこれ半年にわたって続いているそのキャンペーンの要旨はこうだ。 ――元十両力士で“大相撲の八百長の仕掛人であった”と称する

    大相撲の「八百長」って何だ!? ~Number創刊年に載ったコラムを再発表!~(設楽敦生)
  • <三浦知良と香川真司の往復書簡> 香川選手との初対戦に秘められた不思議な縁。(Number編集部)

    香川真司 1989年、兵庫県生まれ。'06年C大阪に入団。'09年にJ2得点王となり、'10年にブンデスリーガ、ドルトムントへ。リーグ前半戦は全試合先発し8ゴール。アジア杯2011では日本代表の10番をつけ、準決勝の韓国戦まで全試合に先発出場。チームを決勝に導いたが、韓国戦後に右足小指付け根の骨折が発覚、今季の復帰は絶望的とみられている。 僕は今、ドイツのドルトムントに移籍して、ようやく半年が過ぎようとしています。チームはブンデスリーガで首位を独走していますし、ここまでは何とかいいリズムでプレーできています。 僕が、カズさんのことを初めて認識したのは、小学校1年生のころでした。特にカズダンスにはものすごく影響を受けた記憶があります。あと、シザースのフェイントもよく真似をしていましたね。その2つはカズさんの十八番ですから、特に印象に残っています。 実を言うと、僕はカズさんと小学校1年生の時に

    <三浦知良と香川真司の往復書簡> 香川選手との初対戦に秘められた不思議な縁。(Number編集部)
  • 興南、圧巻の勝利で春夏連覇。“ガッツポーズ無し”が生んだ偉業。(氏原英明)

    気がつくと、いつもの彼らの試合になっている。 興南の試合を見るたび、そう思わずにはいられなかった。 興南が全国の頂点に立った。沖縄県勢初の夏の頂点は、東海大相模という強豪校を相手にしても圧勝してしまう、驚きの強さだった。 興南の強さ。 それは一言でいうと、「ゲームコントロール能力の高さ」だろう。どんな試合展開になっても、彼らは試合の主導権を握っているのだ。先制されようが、序盤に大量リードを許そうが、彼らは戦い方を変えずに、次第にゲームを支配していく。そして、終わってみれば、勝っている。対戦相手からすると、気がつくと主導権を握られ、試合をひっくり返されている。そんな印象だろう。 準決勝で5点のリードを跳ね返された報徳学園・永田裕治監督の言葉が、興南の強さを如実に示している。 「5-0から5-3になっても、負ける気はしなかったんですけど、勝っている感じもしなかった」 勝っていても、勝っていない

    興南、圧巻の勝利で春夏連覇。“ガッツポーズ無し”が生んだ偉業。(氏原英明)
  • 報徳学園の“完璧な挑戦”を撃退。興南が示した「絶対王者」の精神力。(中村計)

    「最強挑戦者」と「絶対王者」が相まみえたときにだけ起こる奇跡。 準決勝の第一試合、興南対報徳学園の試合は、まるでそんなボクシングの名勝負を見ているかのような試合だった。 だが、やはり挑戦者は挑戦者であって、王者を上回ることはできないのだと感じた瞬間があった。 5-4と報徳の1点リードで迎えた6回裏1死。報徳の1番八代和真は、左中間の当たりで三塁を欲張りタッチアウト。タイミング的には、通常ならば、明らかに暴走だ。だが、この極端にアグレッシブな姿勢が、挑戦者の心と体を支えていたことも事実だった。 2回までに5-0とリードした報徳の選手たちは、ベースを駆けめぐりながら、体全体を使って闘争心を表した。拳を握りしめ、咆哮し、腕を突き上げた。 勇気か無謀か――。報徳・八代の「捨て身」の覚悟。 もうひとつ象徴的だったのが3回表のシーン。興南の2番慶田城開の打球が大きく左に切れ、左翼席に飛び込もうとした瞬

    報徳学園の“完璧な挑戦”を撃退。興南が示した「絶対王者」の精神力。(中村計)
  • <甲子園特集> 沖縄野球の目指す場所。~ふたつの名門校を訪ねて~(石田雄太)

    興南高野球部グラウンド。プロ野球選手を多数輩出しており、メジャーリーグに挑戦し、横浜などで活躍したデニー友利もOBのひとり '99年、春。初めて紫紺の優勝旗がもたらされたが、いまだ夏の優勝は叶わぬ沖縄県。なぜ彼らは、あと一歩勝ちきることが出来ないのか。 古豪の練習と地方大会を密着取材。島国ならではの問題――。そのひと言だけでは片付けられない、課題と魅力が確かに見えてきた。 こん、ちわー。 遥か彼方の選手たちが一斉に帽子を取って頭を下げる。陽射しが照り返して、眩い眼下のグラウンドには、真っ白なユニフォームを着た130人の野球部員が散らばっている。 こん、ちわー。 こん、ちわー。 ちわー、ではない。こん、ちわーなのだ。こん、が遠くからでもハッキリと聞こえる。高校球児は、ちわー、とか、ちわーす、だと思っていたのに、興南球児は全員が、こん、ちわー、だったので、やけに新鮮だった。 レフト側にある体育

    <甲子園特集> 沖縄野球の目指す場所。~ふたつの名門校を訪ねて~(石田雄太)
  • 1