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ブックマーク / xura.hatenablog.com (15)

  • 注目を浴びても浴びなくても私の書いた物には恥ずかしい物は無い - 歓楽叶わぬ納骨堂庭園

    「『斬(ざん)』 時に自分の記事が必要以上に話題にされるのは恥ずかしいことなのかもしれない」を読んで。 どういった記事が誰にとって素晴らしい記事なのか。そんなものは誰にも分かるわけでもなく、判断も出来ないものだ。注目を浴びるのは注目を浴びるだけの価値があるのだ、どんな記事であろうとも。私はそう思っている。罪悪感など感じる必要もない。むしろ、罪悪感を感じる事を恥ずかしいことなのだと言われれば、注目を浴びて素直に喜ぶ者は非難されていると思いはしないか? 運が良い事も込みでその記事は注目されるに値するものなのだという考え方が私は好きだ。もっと自分の書いた物に対して堂々として欲しいものだな。自分が書いた物には恥ずかしい物は無いと言い切る誇りを私は持ちたい。 と、此処までが先に読んだ記事に対する感想。souryuusei0401氏は更に「かめのこだまし…? - 今日の更新:2006年12月27日」で

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    yuiseki
    yuiseki 2007/01/02
  • 求めてくれる人が居る幸せを感じているよ - 歓楽叶わぬ納骨堂庭園

    「オトコのキモチ ブログに求めてもしょうもない10のこと」を読んで。 まず,黒背景を卒業した。 ブックマークコメントや記事のコメント欄でのコメントにも書かれている方がいるが、黒背景というものは読みにくいらしい。私は読みにくいと思った事はないが、大勢に読まれたいと思っていたら淡い背景に文字は黒がいいのだろうな。 とすれば、逆に沢山に読まれたくないと思ったら、他人が嫌うブログデザインにすればいいという事か。 黒背景。重い画像。音楽を流す。それくらいしか思い浮かばなかったが。 読まれる努力もあるのなら、読まれない為の努力も必要という事になるかな。しかし、例え読みにくいデザインだったとしても、その人の書く物に愛情を持っていたら如何しても読んでしまうというのがファン心理というものだ。それは愛情に限らない。憎しみからも何が何でも読んで突付きたいという事もあるだろう。 憎しみを向けられるのは、流石の私も

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    yuiseki
    yuiseki 2006/09/17
  • トラックバックをしないスタンスも無駄な事なのであろうな - 歓楽叶わぬ納骨堂庭園

    「悲しい、予感|とりもなおさず」を読んで。 いや、いい人ぶるつもりは、さらさらないのだが、バトンを勝手に持っていって、TBはしてくるけど、リンクはおろか、名前も出してくれない、という行為に対しても、わかるし、自分も、同じような行動をとっていなくはないよなぁ、と 私の場合はトラックバックをしないという事で相手に不快な思いをさせているのだろうなという思いがあるわけだが、同じはてなダイアリーであれば独特なトラックバックが気に入らないという事でトラックバックをしていない。しかし、それは他サーヴィスのブログにまでもトラックバックを送らない理由にはならない。何故、私がトラックバックを送らないのか、そこには私なりの理由があるわけなのだが、それは秘密という事でそれぞれが勝手に想像してみて欲しい。 さて、moppara氏の身に起きたトラックバックはするがリンクもしない名前も出さないという出来事と、私のような

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    yuiseki 2006/09/13
  • 元ネタの記事内容に興味が無いからだよ - 歓楽叶わぬ納骨堂庭園

    「好奇心と怠惰の間 - なぜ元ネタにブクマしないのか、1つの理由」を読んで。 私もはてなブックマークで見つけてきた記事では言及記事を書かれている方の記事をブックマークし、それを取り上げて更に言及記事を書いている。何故元ネタの記事をブックマークしたり、言及しないのかと言われれば、ただ単に、私が取り上げた記事の筆者が、その記事を取り上げた理由や取り上げたことによって想起される筆者の言葉に興味を示したということだけであり、元ネタには興味は無いからだ。 勿論、その筆者が取り上げた記事にも興味を示す事もある。そんな時は別記事として言及記事を書く。それだけの事だ。

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  • 私は冷たい人間だが話だけは聞くよ - 歓楽叶わぬ納骨堂庭園

    「heartbreaking.:俺は、みのもんたじゃない。メンヘラーのお悩み相談コメントを撲滅したい。」を読んで。 funamushi2氏はこの記事でコメント欄におけるご自分の意見を書かれているわけである。氏が言われる事は尤もであるのだが、氏もコメントでは「価値ある誰かの体験談を聞き逃してしまう可能性」がある事を残念に思っているようだ。それならば、この様な記事は書かぬが良いと思ったのだが、矢張り対応に困る事を分かって欲しいと思ったのだろうな。違っていたら申し訳ないのだが。 コメント欄を開放していない私が言う事ではないだろうが、私ならば何か長文で自分語りをコメント欄でされても、一言で「そうですか。それはお辛いでしょうね」で済ませてしまうかもしれないな。それで「冷たい」だの「非人間的」だの言われたとしても構わない。今の私は「あなたはこんな人なんだな」とレッテルを貼られても「どうぞ、お好きなよう

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    yuiseki 2006/07/09
  • 私の叫びは届かない - 歓楽叶わぬ納骨堂庭園

    「23mmはてな日記 「一時の感情」について」を読んで。 僕にとっては、「人を殺してはいけない」は倫理ではなくて、「俺を殺さないでくれ」という願いと、「俺は人を殺したくない」という(また違う種類の)感情を、別の表現で言い表した言葉なんです。 私は他人が誰かを殺したいと言っていても、それに対して「殺すな」とは言えない。同じく自殺に関しても「死ぬな」とは言えない。昔は言っていた。「殺すな」「死ぬな」と。それは、その人が私にとって大切な人であれば犯罪者や死人になって欲しくないからである。だが、それだけじゃない。もし、その人が自分の家族であったとしたら犯罪者の家族と指を指されるのは私なのである。自殺したのが家族ならば、助けられなかった不甲斐ない奴と罵られるのは私だからなのである。自分の事しか考えていないのかと言われても、それが事実なのだ。そして、私も殺されたくないし死にたくない。だから「殺さないで

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    yuiseki 2006/06/23
  • 相手と自分との違いを楽しむ - 歓楽叶わぬ納骨堂庭園

    「ネット硬派系 - 私の頭の中のフィルター」を読んで。 非モテは愛に見返りを求めて行為をしているから非モテになっているわけではない。相手のフィルターを通し、自分の行為がどのように相手に捕らえられるか考えて、「行為をしない」から非モテになっているのである。 相手の気持ちなど一切考えなくてよいのであれば、誰も非モテになどならない。 「非モテ」の部分を「非コミュニケーション」に変えてみても言える事だなと思った。 yugyu氏の言われるように、自分の好意がそのまま相手に伝わる事は無いと私も思っている。逆に、私も誰かの好意がそのまま私に伝わっている訳ではないのだろう。相手からの行為で好意を持ってくれているようだと感じてもそうではなかった事を経験した事もあるからだ。だが、そのほとんどが相手は心を隠して私に接していたという事もあり、好意を持っていないのに好意を持っているような言動を無意識に出来る人間は

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    yuiseki 2006/06/18
  • ブログもSBMも同じという事なのだな - 歓楽叶わぬ納骨堂庭園

    「越後屋 - 歓楽叶わぬ納骨堂庭園 - それはブログと言わないか?」を読んで。 はてブはRSSを生成していることを考えても、トラックバックやコメントの受け入れを拒否しているブログとなんら変わらないんだよね。用途がリンク列記型個人ニュースサイトに特化しているだけで。 成る程、はてなブックマークもブログと言えるわけか。 はてなでIDを取ると、ブログ形式のはてなダイアリーが開設出来るわけであるが、その他にもはてなブックマークを利用する事が出来る。ブックマークがブログと言うのなら、ダイアリーとの違いは何だろうと思ったのだが、考えてみればはてなダイアリーも使い方によってはブログの使い方をしていないとなればブログではないとも言えるか。私の使い方もブログとはとても言えない使い方でもあるしな。 はてなブックマークで付けられたコメントの付け方というものも、全ての人間が同じ使い方をしている訳ではない。だからコ

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    yuiseki 2006/06/18
  • 非公開で書いている事を言ってしまう心理とは? - 歓楽叶わぬ納骨堂庭園

    Blog向上委員会 ブログを非公開にする」を読んで。 ブログを非公開で書く事を否定するわけではない。ただ、矢張り私はそうであれば「非公開で書いているよ」とは決して口に出さないで欲しいと思う。大して興味も持っていない相手であったとしても、何回か続けて読んでいるとなれば、その非公開の場所で何を書いているのだろうかと多少は気になる私である。だから、それが強く興味を抱いている相手だったとしたら、気になって仕方なくなるだろうと容易に想像が出来るからだ。人が言うように、当に下らない物だったとしても、私はきっと読みたいと思うだろう。 そういう事で、私は「非公開で書いているよ」とは言って欲しくないのだ。 誹謗中傷のような類ではない。主張などでもない。もちろん他所にリンクを張るような言及などでもない。このようなことを書いて非公開にしていたのでは、逆に始末が悪いとすら思ってしまう。 では公開しても良いで

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    yuiseki 2006/06/16
  • 書いて書いてこれでもかと書き続けるよ - 歓楽叶わぬ納骨堂庭園

    「明日は明日の風が吹く - 何時か懐かしい思い出になるまで(from 歓楽叶わぬ納骨堂庭園)」を読んで。 筆者が言う通り、日常に意識を向ければ受けた傷は癒されていくものだと私も思っている。身体の傷も心の傷もどちらも時が解決してくれるものなんだという事は私も分っているつもりだ。だから、当時に比べて傷のせいで夜も眠れなくなるという事は無くなった。 だが、たとえ日常に意識を向けていても、誰かが書いている記事で似たような経験を綴っているのを見てしまうと引き戻されてしまうのだ。 痛みや辛さは当時に比べれば多少減ってはいるのだが、フラッシュバックしてしまうと、当時の痛みがありありと思い出されてしまう。それは私の意思ではどうにもならないのだ。 しかし、私は思うようになっていった。その痛みを無くす事が出来ぬのならば、そのまま受け入れてしまおうと。痛みを正面から見据えて対決するかの如く書き綴る。つまり自分自

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    yuiseki 2006/05/20
  • 私の想いは伝わらない - 歓楽叶わぬ納骨堂庭園

    「こんな世界のはしっこで・・・ いつから、その向こう側に目を向けるよう…」を読んで。 私はブログが最初ではなかった。最初はサイトを通じて人間関係を構築していったわけであるから、記事から相手に入ることはなかった。だが、相手を好きになるきっかけは矢張り書いたものであるから、記事で相手を好きになるという事と同じなわけだ。 私が相手に興味を持つのに二通りある事に筆者が書いたこの記事で気が付いた。 一つは雰囲気である。それには感情的な文章が手助けをしている。感情的な文章によって創り出された雰囲気、或いはそれとは 対極の淡々とした綴りで創り出される独特な雰囲気、それらの雰囲気を心地良いと思うようになり、それから「これを書いた人とはどんな人だろう」と興味を持っていく。 後一つはキーワードとなる言葉である。その言葉とは「興味を持ってくれますか」である。このキーワードは一つだけではなく、自分を好きになっても

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    yuiseki 2006/05/18
  • 全てはまず傷付き傷付けられる事から始まる - 歓楽叶わぬ納骨堂庭園

    「パソコンはおもちゃ箱 - 傷つくことを怖れないで」を読んで。 かつて、私に「交流を止めないで」と言ってくれた人がいた。その人も筆者の言うように、私の体験はマイナスにはならないと思ってくれていたのだろう。 私の人となりが豊かになっているか如何かは疑問に思っているが、対人関係で慎重になる大切さは身に付いたかもしれないな。 若い人が、他人を傷つけること、自らが傷つくことを怖れすぎているように感じて気にかかる。 若い人に限らないのではないか。年のいった人でも恐れ過ぎている人はいる。多いかどうかは分らないが、私の知っている人々には私より年長者が何人かいて、その人達も私同様、傷付き傷付けられる事に過剰に敏感になっているようだ。はてなブックマークのコメントでも誰かが「傷つくことを過度に恐れているのでは?」とコメントを下さった方もいるように、そういう過度に恐れる人は私の印象では多いように思う。これも根拠

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    yuiseki 2006/05/18
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  • 誰かの言葉が気付かせてくれる - 歓楽叶わぬ納骨堂庭園

    「23mmはてな日記 他人に自分を決め付けられるのは」を読んで。 私は「分ったように言われても気持ち悪いとは思わない」と書き、その気持ちには偽りはなかった。そして「自分を分ったように思われても平気」と更に書いたわけである。ところが、それに対して筆者は「決め付けられるのはいや」と言っている。そこで、筆者の記事を読んでいて気付かされた事がある。 「平気」と言うよりは「あきらめ」に近いかな? 成る程と思った。よくよく考えてみて「平気」というのは違うな、と。胸に手を当てて思い起こしてみれば「平気」ではない。この私でも確かに決め付けられれば今でも多少はいい気はしないわけであるから「平気」ではないのだ。だが、その「決め付けられた私」をいい気はしないというのは、私にとっては「分ってくれない」ではなく、その私も自分の中にあるのだと気付いてしまうからでもある。だから平気でいられるわけが無い。所謂図星というや

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    yuiseki 2006/05/18
  • 傷付いてもこの人と繋がりたいと思える相手を - 歓楽叶わぬ納骨堂庭園

    はてなブックマーク - 歓楽叶わぬ納骨堂庭園 - 読んで思わず記事を書いてしまうブログ」のコメントを読んで。 私は感情に訴えかける文章に対してコメントをつけてしまうという事を書いたわけであるが、それへのコメントで「常に自分語りをしているうちのようなブログは最もコメントがしづらいのだろうと思った。」とコメントを寄せて下さった方がいた。 自分語りでも私は感情に訴えかけるような文章で書かれてあればコメントをしてしまう傾向があり、それで相手を傷付けてしまう事がよくあったな。普通はコメントをしづらいわけであるから、そういう事はないのかもしれないが、私はそういう経験をして何度も痛い目に遭ってきたものだった。とはいえ、それは相手の方がもっと辛い目に遭ったには違いないのだが。 それから「俺の場合は、結局自分が可愛いから傷付きたくないだけなんだよね・・だからコメントしない 」とコメントを寄せて下さった方も

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    yuiseki 2006/05/18
  • その淋しさの向こう側には - 歓楽叶わぬ納骨堂庭園

    「こころの風景 言葉は相互理解のためにある」を読んで。 誠意とは何だろう。私は最近「誠意」という言葉があまり好きではなくなってしまった。 他人から見て、私の書くものに誠意が果たして感じられるかどうかも分らない。それよりも「誠意」という意味が分らなくなってしまったようでもある。 広辞苑では誠意とは「私欲を離れ、曲がったところのない心で物事に対する気持ち」と書かれてあったのだが、それで考えると私の書くものは誠意はないのかもしれない。それは何故か。「私欲」という部分である。私の書く物は自分の為に書いているのである。他人の為ではない。誰かの役に立って欲しいとか、誰かの為に書いてはいないので「私欲」と言えないだろうか。 勿論、それは私の書くものがそうであると言っているので、他者が「自分の為に書いている」と言ったとしてもそれは「私欲」とは違うのだが。 ユーモアを交えても軽薄にはせず、自分も他人もおとし

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    yuiseki 2006/05/18
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