1. 涼子 ムンクが隣のミヨちゃんの二の腕を噛んだのは、桜の花びらが降る頃だった。 ムンクは盲導犬になることでお馴染みの雌のラブラドールレトリバーで、なぜあの不気味な絵の画家の名前をつけられることになったかというと、娘の藍子が、単に語感がいいからと提案して、家族がそれを受け入れたからであった。その名前に反して、ムンクには、代表作に見られるような不気味なところはなく、すこしやんちゃで優しいな成犬に育った。 家にやってきてすでに六歳、かなり落ち着きをみせはじめたムンクを、涼子が春の陽気を存分に味あわせてやろうと庭に放していた。涼子が知らぬ間に、裏庭のゲートから隣に住む幼稚園の年少組のミヨちゃんが入ってきていた。ミヨちゃんはムンクに近づいて、噛んでいた豚耳にでも手を伸ばしたのだろう。ふだんは人に牙を剥いたりしないムンクだけど、よほどミヨちゃんがしつこく触ってきたのだろう、左の二の腕に噛みついた。